ヴィルノ『マルチチュードの文法 : 現代的な生活形式を分析するために』書評

 

 

 

パオロ・ヴィルノ著、 廣瀬純
 『マルチチュードの文法 : 現代的な生活形式を分析するために』

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書名:マルチチュードの文法 : 現代的な生活形式を分析するために

著者:パオロ・ヴィルノ

訳者:廣瀬純

出版社:月曜社

出版年:2004


 

▼〈マルチチュード〉についての最適の解説書

 〈マルチチュード〉という概念を一躍有名にしたのは、ネグリ=ハート『〈帝国〉』(2000年)であった。しかし、ネグリ=ハートによる〈マルチチュー ド〉概念の語り口は、その定義やイメージが曖昧であるとともに、それへの期待が楽観的にすぎる面があるとして、しばしば批判されてきた。

 本書は、その〈マルチチュード〉概念についての最適の解説書である。本書の意図は、題名どおりに〈マルチチュード〉の概念について説明し、その概念を用 いる際の「文法」について論じることにある。本書は、筆者であるパオロ・ヴィルノがカラーブリア大学で行った講義を書き起こしたものであるので、非常に読 み易く、論旨も明確である。同時に、議論の内容は深く、強度がある。ネグリ=ハートの『〈帝国〉』と併せて読むには最適の一冊であると言えよう。



▼people(ホッブズ)とmultitude(スピノザ

 もともと〈マルチチュード〉の原語はラテン語の multitudeであり、これは「多数」や「民衆」などの意味である。ネグリ=ハートの〈マルチチュード〉概念は、「群衆」「多数性」「多数者」などと訳されることが多い。

 この点について、まずヴィルノは〈マルチチュードmultitude〉が〈人民people〉の反対語であることを指摘する。ヴィルノによれば、〈人民 people〉は人々の集まりを同一性において集約したものであり、人々の多様性を《一者》に収斂しようとする概念である。これに対して〈マルチチュード multitude〉は、いかなる《一者》にも収斂することなく、複数性(多数性)を持続させる人々の集まり、を意味している。

 ヴィルノによれば、〈マルチチュード〉と〈人民〉という二つの極には、それぞれの父と見なしうる人物が存在する。すなわち、〈マルチチュード〉の父がス ピノザであり、〈人民〉の父がホッブズである。ホッブズは『リヴァイアサン』のなかで、社会契約を結んで「国民」になる以前の数多くのまとまりのない人々 (=群集)という意味で、〈マルチチュード〉という語を用いている。ホッブズマルチチュードを毛嫌いしており、マルチチュードを激しく罵っていた。一方 で、スピノザは〈マルチチュード〉(=群集)こそが統治権成立の契機であると考えた。スピノザによれば、統治権は「契約」によってではなく「群集の力」 (multitudinis potenitia)によって定義される。スピノザは、群集のなかで各人の力との差として現れるアノニマス(匿名的)な力を「群集の力」と呼び、これこそ が人間集団のひとりひとりに対して何かを行わせるリアルな力として現れると考えたのである。

 ここには政治思想をめぐる、明確な思考の対立軸を見出すことができる。同一性を前提とする人間集団=〈人民〉による政治(国民国家的論理)か、複数性を前提とする人間集団=〈マルチチュード〉による政治(非国民国家的論理)か――。



▼新たな《一者》としての〈一般的知性general intellect〉

 では、マルチチュードはまったく共通性をもたないバラバラで無秩序な人々の「群れ」なのかといえばそれは違う、とヴィルノはいう。〈マルチチュード〉 が単なる「差異の集合」ではなく、複数性を保ちつつ特定の共通事(ネグリ=ハートによって〈共common〉と表現されたもの)を分有した集団であるため には、やはり何らかの≪一者≫が必要とされる。ではその場合の≪一者≫とは何か?

 もちろんその答えは「国家」ではない。ヴィルノはその答えを、「言語活動」や「知性」などの「人類のもつ諸々の〈共有の能力〉」に求める。なぜ〈マルチ チュード〉にとっての≪一者≫が、言語活動や知性などの人類のもつ諸々の〈共有の能力〉であるのか。ヴィルノはこれを、アリストテレスの「共有のトポス」 という概念を用いて説明している。アリストテレスにとって、諸々の「共有のトポス」とは、非常に一般的な論理的・言語的諸形式のことであり、私たちのあら ゆる言説の諸骨格――すべての個別の表現を可能にし秩序付けるもの――のことであった。ヴィルノによれば、「特殊なトポス」(特定の集団内でのみ通用する 言語表現)が消滅した現代社会において、「共有のトポス」=「一般的知性」は「多数的なものがあらゆる状況のなかでそれを参照するようなひとつの分有され た資源となる」。

 このように「一般的知性」を公共財と見なしていた人物として、ヴィルノマルクスを見出す。マルクスは『経済学批判要綱』の「機械についての断章」 (「固定資本と社会の生産諸力の発展」)において、〈一般的知性general intellect〉について論じていた。西欧政治思想の伝統において、少数の哲学者が独占的に用いていた〈一般的知性〉や〈言語的知性〉が、現代のマル チチュードにとっての強力な武器となる契機を、ヴィルノマルクスのテクストに読み取っている。さらにヴィルノは、このような〈一般的知性〉はポスト・ フォーディズムにおけるあらゆる「労働=協働」に含み込まれているとも主張している。

 以上のように、ヴィルノはきわめて明快に「マルチチュード」概念についての解説を加えつつ、その可能性について実践的に語っている。ネグリ=ハートの「マルチチュード」概念に関心を持つ方に是非お薦めしたい一冊である。

(評者:百木 漠)

更新:2012/04/25