ヴァッティモ『透明なる社会』 違和感の美学 - 退屈な話


ヴァッティモ『透明なる社会』 違和感の美学 - 退屈な話

 

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『透明なる社会』を読む。

透明なる社会 (イタリア現代思想)
ジャンニ・ヴァッティモ
平凡社
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本書の中心はメディア論コミュニケーション論、芸術論である。ヴァッティモはまず、ポストモダン社会が近代から決定的に断絶している価値転換に触れている。「ともかく、私が提示する仮説によれば、近代が終焉するのは、歴史を――さまざまな理由から――もはや一元的なものとして語りえないことが明らかになるときである。」(9頁)
本書が1989年に初版、2000年に増補されたものであることに留意したい。まだまだポストモダン論がもてはやされていた時代なのであって、今日からすればさすがに安直にすぎるのではないかという議論がここで展開されるのも、そのアクチュアリティから大目に見るという寛容さが必要である(そんな義理もないんだけど)。
この近代の終焉・歴史観の崩壊という事態の形成に決定的な要素としてヴァッティモが挙げるのは、植民地主義帝国主義の終焉、そしてコミュニケーション社会の到来である。

 

こうして、私は「透明なる社会」にかかわる第二のポイントに触れることになる。いずれわかるように、「透明なる社会」という表現は、ここでは疑問符付きで導入されている。主張しようとする論旨は、以下のとおりである。(a)ポストモダン社会が誕生するにあたって、マス・メディアが決定的な役割を果たしている。(b)マス・メディアは、このポストモダン社会を、「透明」で、自覚的で、「啓蒙された」社会としてではなく、カオスといっていいほどいっそう複雑化した社会として特徴づけている。そして最後に、(c)まさしくこの相対的な「カオス」にこそ、われわれの解放への希望が宿っている。(12頁)

ヴァッティモはあまり凝った表現をしない。ここでも個々の論旨は明確で、(a)については今更どうこう言うことでもあるまい。フランクフルト学派メディア批判論から距離をとりつつ、マス・メディアというものは、社会を全体主義的に同調させるものではなく、「実際にはむしろ、ラジオ、テレビ、新聞は、さまざまな世界観[Weltanschauungen]の広汎な拡散と多様化には不可欠なものとなったのである」(13頁)と彼は言う。要するに、メディアというものは何もたった一つ機関が担うわけではなく、様々なマイノリティの声をその媒体ごとに拾い上げるものであるから、世界解釈の多元性をいや増しにするものである。それゆえ、「マス・メディアをつうじて多様な文化や世界観が解放されるようになることで、かえって透明なる社会という理念そのものが否定されてしまうことになる。」(15頁)
本書の(隠された疑問符つきの)タイトルにもなっている「透明なる社会」とは何か? それは社会の成員のあいだでコミュニケーションが何の摩擦もなく成立する理想社会を指しており、ある種の立場(メディア楽観論)からは、それを促進するのはマス・メディアの役割である。「論理的社会主義に基づく共同体が実現する際限のないコミュニケーション社会こそ、透明なる社会である。」(34頁)
こちらではヴァッティモは、ハーバーマスやアーペルといったコミュニケーション論者に対して距離をとる。彼らが前提にしているのは、論理的な言語使用によって、話者および社会に存在するコミュニケーション上の障碍を取り払えば、「認識の完全な透明性」(33頁)が可能であり、相互理解が果たされるという理念である(「サルトル弁証法的理性をめぐる浩瀚な研究を支える概念構造」(35頁)にさえこの自己透明性という理念は存在するという)。
論理的社会主義を実現する上で決定的な契機は、まさしく人文科学社会科学である」(33頁)という指摘は尤もなもので、なんということはなしに人文社会科学ではその種のロマン主義が横行する。そうした相互理解的発想においてモデルにされているのは、「研究者科学者共同体」(39頁)であるが、「しかし、解放された人間主体、ひいては社会そのものを実験室の科学者という理念をモデルに組み立てることは、はたして正当なのだろうか」(同)という批判は正しいもののように思う。大衆社会批判をする学者はしばしば理想像を事態を熟考することのできる冷静沈着な人物に求めるが、それはそのひとのナルシシックなイメージではないか。
ヴァッティモが強調するのは、社会はメディアの浸透によってかえって多元化しており、透明なる社会の相互理解が不可能になっている状態である。そこでは個々の言語は論理的に中性なものではなく、ローカルな差異や要素として「方言」化するのであるが、「むしろさまざまな差異や「方言」を自由に解放する意味は、一体化によってもたらされた最初の効果に対する違和感が生じて、解放と綜合された効果を発揮する点にある。」(19頁)

さまざまな方言が交わされるようになった世界のなかで、私が自分の方言で語るならば、私は、自分の方言が唯一の「言語」ではなく、まさしく多数のなかの一つの方言であることも自覚するだろう。この文化多元社会で、私が自分の――社会的、美的、政治的、民族的な――価値観を公言すれば、私の価値観をはじめとするこれらすべての価値観の歴史性、偶然性、有限性をも敏感に意識することになるだろう。(19頁)

ここでヴァッティモは、彼としばしば同列に置かれるリチャード・ローティと同じ立場に立っている。リベラルな アイロニストは、自らの立場を自らのものとして愛玩しながら、それが決して単独のものではないこと、他の価値観もまたありうることを承認する。自らの価値 それ自体が歴史的であり偶然的であり有限的であることを認めながら、つまりはその違和感に身を置きながら、生きること。これが「弱い思考*1」であり、彼の考える「解放」であり、それがポストモダン社会を生きる「処世訓」たる所以である。
ニーチェの言う「世界の寓話化」の現状において、「夢を見ていると知りながら夢を見続けること」(29頁、59頁)、これが彼の理想であり、それを違和感の経験とも言えば、やはりニーチェに倣って「超人」(42頁)のイメージによっても語り、世俗化の宿命とも神話の脱神話化とも言う。芸術について語らせれば、それがかつてはマルクーゼ的な美的ユートピアが志向されていたのに対して、美的共同体は揺らぎとしてヘテロトピア的に生起する(「われわれは、世界をかたちづくり、共同体をかたちづくるモデルの認識として、美の経験を捉えている。ただしそれは、これらの世界や共同体はっきりと多元的なものとして生起する場合にかぎられる。」97頁)と述べ、ハイデガーベンヤミン美学芸術論を参照して、別の論考では違和感と呼んでいたところのものをショック(=シュートス)と呼ぶ。現代芸術において、「美的経験は、生に違和感を感じつづけるためのものである。」(74頁)
ポストモダン-マスメディア-コミュニケーション社会における実存の違和感を美的=感性的に追求するのが本書における主眼である。この種の議論は我々にも既視感があって、島宇宙やタコ壺がどうこうと言っていたとき、なんとかその多島性を尊重しようと考えていた人々は、この違和感を維持し続けることを説いたものである。とはいえヴァッティモの主張には、実存に対する理解が決定的に欠けている。何も実存主義者になれと言うわけではないが、メディアが人間の感性を変えたのだからそれに相応しい生き方をしようと言うばかりでは、それがもたらす疎外感から目を覆うのに等しい。「弱い思想」とはじっさい、自分の生き方を多様な生存の前で見失いつつも生きよ、というタフな主張なのではないか。
増補に際してくわえられた第六章「脱現実化の限界」は、その意味で、「弱い思想」の限界を示すものでもある。ニーチェの「事実などというものはなく、あるのはただ解釈にすぎない」(112頁)という主張を解釈学がコミュニケーション社会の哲学たらんとするためのテーゼとして掲げつつ、ここでもやはりヴァッティモは、「脱現実化」ということばを、世界の多元性の生起の体験として記述する。彼によれば、この傾向が「喪失」(117頁)と感じられるのは、それが十分に徹底されていないからである。そしてそれを不徹底にさせしめているものこそ、彼によれば、「マーケットの要請」(119頁)なのであって、それは「市場原理が働くため、どこまでも現実主義的な審級である」(同)。美的実存=脱現実化と市場原理=現実原則とを対置させることで、ヴァッティモの議論は急速に訴求的であることをやめる。

いまなすべきことは、脱現実化を唯一残った手がかりとみなすことである。そして、脱現実化の真に開放的な意味での機能を妨げている要因が、現実主義的な「限界」への固執にあることを認識するべきである。たとえば、マス・メディアでは美学よりも経済が優先される。もし経済が、(誤った)現実主義的な審級として美学よりもなお優先されるならば、そのわけは、つい先頃、世界で勃発したばかりのありとあらゆるタイプの原理主義の波が押し寄せてきた事態と同じような現象がここでも起きているからである。(122-123頁)

彼の立場は美的ヘテロトピアを志向するものではあれ、経済的にはユートピアを前提としている、とするべきではないか。なるほど誰もが安楽な生を営み、古代ギリシアのような自由人であることができるなら、他の生存様式を認めることにもやぶさかでない。しかし、明らかに現状はそうではなく、かつ今後もそうなる見込みはない、という状況にあって、他の生活圏や文化様式、一言で言って「世界観」と呼ばれるものに対する反応は、排外主義的なものとなってしまう。ヴァッティモの観測では、今日の経済は利便性より娯楽に向かい、美的充足のための利用が進んでいる。また、後期産業社会では、量的ではなく美的な商品生産によって生活水準が高められる、とも言う。さらに金融経済がどんどん具体性を失っていくことも、経済美的なものとなりつつある傾向に他ならない、と見做している。本章は2000年に書かれたものであるから、21世紀はじめの十年間の宗教的ファナティズムから経済破綻に至る動向を十分に察知できなかったのは彼の非とされるべきではないが、それにしても、えらく楽観的なものだな、と思わざるをえない。
いっぽう、ヴァッティモは古典的な芸術観(自己陶冶的で調和的)に対立するかたちで、今日の美的体験は「衝突」として、あるいは「闘争性」において理解さ れるべきだと言っている。これは違和感にかんする議論の延長で、つまり「歴史性、偶然性、有限性」の認識が我々に衝撃を感じさせる、という論旨だと思われ る。そこでは芸術は、我々の視点の固有性を砕く暴力として機能する。しかし、他者の視点に対する暴力というものも考えられないだろうか? 世界観ごとに共同体が分枝するような多元世界において、憎むべき他者への憎悪が表象において噴出するという事態はたやすく見受けられるたぐいのものである。もちろん「弱い思考」はそのような暴力に訴えないところに特徴があるのではあるが、たとえば彼が依拠するニーチェにとって、そのような弱さは到底肯んじえないものではないか? あるいはハイデガーにとってそのような多元世界は承服しうるものだろうか?

私には彼の言う「解釈学」の射程が今一つわからない。もしニーチェ以後の解釈学が「どこまでも漂いつづけるしかない」(112頁)のであれば、それは学を名乗るにも足らないほどに弱々しい観測者にすぎないのではないだろうか。「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。大切なのはそれを変えることなのである」というマルクスの言は、解釈学にどう響くのだろうか。