ヴァッティモのケノーシス論(佐藤 啓介)

ヴァッティモのケノーシス論

 

ジャンニ・ヴァッティモの宗教哲学の倫理的意義

ケノーシス概念を中心として

【注意書き】
本論は、日本基督教学会近畿支部会(2002年3月26日、同志社女子大学) にて発表した研究です。以下は、当日口頭発表した原稿ですが、各節の表題は、HTML化するにあたり、新たに私が補足したものです。

要約 (学会資料集に掲載)

現代イタリア哲学を代表する思想家であり、「弱い思想 pensiero debole」の提唱者として有名なジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo, 1936- )は、J. デリダらとの共著『宗教』(La Religion, 1995)、『信じることを信じること』(Credere di credere, 1996)などにおいて、盛んにキリスト教思想の現代的意義を主張している。

ヴァッティモの哲学は、M. ハイデッガーやL. パレイゾンらの流れを引く独自な解釈学的哲学であるが、彼は、ハイデッガーレヴィナスらの形而上学批判を手がかりに、根拠 Grund への志向をもつ形而上学的思考が根源的に抱える排他性・暴力性を指摘する。そして、彼はそうした排他性を回避するため、「ポスト形而上学的現代において要 請されるべき弱さ」を原理とする思想の構築を試みる。その弱さ(根拠の不在とその承認)を原理とする思想こそが、彼にとって解釈学的哲学なのである。

そうした解釈学的観点から、ヴァッティモはキリスト教思想に対して独自な解釈を加える。特に、彼は「ケノーシス」 の概念に着目し、それが「弱さ」のモデルとしてふさわしいことを力説する。彼は、ケノーシスという「身を下げること abbassamento」ないし「隔たり」がキリスト教思想の成立の第一の起源に存在することを、文字通り根拠の不在とその承認という弱さとして解釈す るのである。ヴァッティモにとって、神が十全に現前しなかったということ、この点こそがキリスト教思想の核心なのである。そして、ヴァッティモは、その弱 さを「克服 Überwindung」するのではなく、その弱さに即した思考を展開すべきだと主張する。何故なら、弱さの克服という志向は、再び、根拠への志向をもつ 形而上学的思考の排他性へと回帰してしまうからである。

本発表では、こうしたヴァッティモの宗教思想を体系的に整理し、その体系の中に一貫して存在し、かつその体系を基礎付けている倫理的関心を解明する。そして、それが持つ意義ならびに問題点を指摘することが、発表の最終的な目的である。

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はじめに

いわゆる世俗化した現代社会において、キリスト教思想はどのような意義を持っているのか、あるいは、どのようなメッセージを発するべきなのか。とり わけ、同時テロ以降あらわになった状況下において、キリスト教思想は「疎遠な他者」とどのように接していくことが望まれているのだろうか。他者を黙殺する のでもなく、また、強制的に同化させることもない関係を切り結ぶためには、キリスト教思想はどのようなモデルを参照することが可能なのだろうか。

こうした問題意識のもと、本発表で扱うのは、現代イタリアを代表する哲学者 Gianni Vattimo の宗教思想である。ヴァッティモはパレイゾンやガダマーらの元で学び、独特な解釈学的哲学を展開しており、また、ニーチェハイデッガーの研究者としても 知られている。イタリアでは、ハイデッガー哲学が古くから受容され、独特な哲学が展開している。特に、ヴァッティモらによって主張された「弱い思想 pensiero debole」と呼ばれる哲学は、大きな影響力を持っている。この弱い思想は、美学の分野を中心に研究が進んでいるが、ヴァッティモ自身が宗教について発 言することが多いため、宗教思想の分野でもイタリアやフランスにおいて一定の評価を得つつある。

本発表ではまず、彼が現代社会の中で宗教をどのように位置付けているか確認する。次いで、その理解の基礎にある「弱い思想」という彼の哲学を略述す る。それを踏まえて、その弱い思想にふさわしいと彼が考える神のモデルを解明する。そして、これらの叙述から、彼の思想に一貫しているのは、「暴力性を回 避しようとする倫理的関心」であることを結論として導きたい。

宗教の回帰と世俗化 : 宗教の位置づけ

ヴァッティモは、現代社会の至るところで「宗教の/への回帰 ritorno」という現象が見られると指摘する。この現象の原因としては、一般的には、科学技術社会の貧困や紛争、環境破壊に伴う精神的不安などが挙げ られるだろう。また、哲学の内部に関していえば、諸思想がこれまで担っていた生の意味の付与という役割を、今度は宗教思想のうちに見出そうという傾向が、 宗教の回帰の原因として挙げられよう。これらの原因づけに共通しているのは、近代合理主義の破綻した一面を克服するものとして宗教に期待する姿勢である。

しかし、ヴァッティモはそうした原因付けに疑問を呈する。

しかし、現状をそのように読み解くことは ...... 我々が出発した地点たる回帰という問題そのものを、直ちに解決されるものとして呈示してしまう。言いかえれば、現在の状況の歴史性が、単なる逸脱状態 égarement という観点で考えられてしまうのだ。そして、この逸脱状態のせいで、常に現前しそこにあるはずの基礎/根拠 fondament から我々が遠く隔たってしまうというわけだ。さらには、全く同様の理由で、「非人間的な」科学・技術を産み出している、という次第だ。(Vattimo1995: pp.89-90)

つまり、「宗教の回帰」現象に対して、先に述べたような原因を求めることは、「否定されるべき現在の状況と回復すべき本来的な状況」という図式を既 に前提としている、というのが彼の議論の出発点である。なるほど、ヴァッティモは、宗教の回帰という現象は決して否定しない。だが、宗教への回帰がことさ ら求められるほど宗教性が失われた現在の状況を「克服されるべき偶然の逸脱」と捉えることには徹底して否定的であり、また同様に、「回帰すべき本来的な起 源」としての宗教を想定することにも、否定的である。

むしろヴァッティモは、宗教の回帰という現象が、宗教にとって偶然ではなく本質的な事柄だと主張する。すなわち、「宗教の成立した最初の状況から、 宗教が常に既に隔たってしまっていること」こそが、宗教の回帰という現象がおこる原因だと主張する。端的に言えば、「起源から隔たっているからそこへ戻ろ うとする」ということである。

ハイデッガーが語った存在の忘却の事態と同様、...... 重要なのは忘却された起源を、それを再び現前させることによって記憶することではない。我々がそれを既に常に忘却してしまっているということを記憶するこ とが重要なのであり、そして、この忘却とこの隔たりを想起することが真の宗教経験を構成するものなのだということを記憶することが重要なのだ。 (Vattimo1996: pp.9-10)

ヴァッティモは、宗教が歴史を通じて常に既に起源からずらされていると主張し、その事態を肯定的に評価する。そして、彼はそうした宗教のあり方を 「世俗化 secolarizazzione」と表現するのである。ヴァッティモの定義を引用すると「聖なる起源から近代の非宗教的文明が解き放たれる「漂流」の過 程」が世俗化と呼ばれている。では何故彼は世俗化を肯定的に評価するのか、何故この世俗化が宗教にとって本質的なのか。それを理解するためには、彼の近代 理解、そして形而上学批判を確認する必要がある。

形而上学批判 : 形而上学と暴力

ここでいう形而上学批判とは、ハイデッガー形而上学理解を踏襲したものである。ハイデッガーは次のように述べていた。

従って、如何なる形而上学も根本的には、根拠から釈明を行い、根拠について弁明しつつ、最終的にはその根拠に弁明を求めるという、根拠から根拠づけること vom Grund aus das Gründen である。(Heidegger1957: p.49)

ヴァッティモは形而上学という体系のうちに「暴力性」を見いだす。それは、「根拠という第一原理の権威的圧力によって、全ての問いかけを沈黙させる こと」こそが、彼の考える形而上学の暴力性である。即ち、それ以上遡れない根拠から成り立つ体系の閉塞性故に、その外部に存在する他者を否定し、一切を全 体化してしまう暴力性である。

そして、ヴァッティモが形而上学的態度のメルクマールとして挙げるもの、それは「把握可能で、現前する不動の根拠 Grund を求める志向」である。また、ハイデッガーが指摘するように、そうした身振りは同時に存在の忘却を意味するのである。この点で、形而上学批判は論理的問題 ではなく、あくまで倫理的問題として提起されたものである。ちなみに、こうした暴力性が実際に具体化したものが、近代の政治的・科学的暴力性として捉えら れている。

無論、形而上学の暴力性という問題意識は、ヴァッティモに限らず、他の思想家にも見出される。しかし、例えばアドルノがその代表だが、しばしば、 「形而上学の欺瞞を暴き、それを克服する」というテーゼを立てて形而上学批判を行う立場が見受けられる。だが、ヴァッティモはそうした立場にも同意しな い。何故なら、そうした立場は、「形而上学を越える新たな真理という第二の形而上学」という罠に陥っているからである。それでは、如何にして形而上学の外 を思惟すべきなのだろうか?

克服か屈曲か : 弱い思想の基本テーゼ

ヴァッティモは、アドルノらの形而上学批判の態度を、克服 Überwindung の思想と定義し、この克服という「強い」思想では形而上学の暴力性を否定することはできず、却って暴力性を行使し続けると要約する。強い思想の対極として 彼が持ち出すのが、有名なモデル「弱い思想」である。そして、彼は克服というテーゼを立てる代わりに、ハイデッガーに倣って屈曲 Verwindung というモデルを提出する。屈曲という語が意味するのは、存在が今ここに現前するのではなく、常に今ここの向こうへと引き渡されるということである。即ち、 伝統の中で脈々と引き渡されつつも現前することのないもの、「常に既に過ぎ去ったもの passato」として存在を理解する仕方のことである。

ハイデッガーとヴァッティモの言葉をそれぞれ引用しよう。

《存在》は、その都度その都度宿命的 geschicklich に、それ故に伝統 Überlieferng によって支配されて、言葉に表されるのである。(Heidegger1957: p.41)
この点で我々が存在について語りうること、それは、存在は伝-承 trans-missione 、送付 invio 、伝統 Über-lieferng 、宿命 Ge-schick であるということのみである。過去や他者に由来する一連のこだまや、言葉やメッセージの残響によって構成される地平の中で、世界は成立するのだ。...... 真の存在とは、在るのではなく、送付されるのである。(Vattimo1983: p.19)

ここで注意したいのは、存在が「常に既に過ぎてしまったもの」と見なされている点である。即ち、我々が経験するのは、存在の「痕跡」としての言葉やメッセージのみだ、ということである。

では何故このような考え方が「屈曲」として提示され、また、「弱い思想」と呼ばれるのだろうか。存在が痕跡として我々に伝達されるという点で、存在 は自ら隠れ、引きこもる。それが屈曲と呼ばれている。存在が現前せず、かつその状況を認めるという点で、形而上学が拠って立っていた根拠がないからこそ、 「弱い」のである。それは同時に、存在が屈曲し、現前しないという意味で、「存在そのものの弱さ」でもある。

よって、ヴァッティモが解釈学へ目を向けるのはきわめて自然なことである。そして、我々にできるのは、存在の現前を回復させることではなく、引き渡された言葉について再び思惟すること、伝統の再解釈しかないのである。

ヴァッティモ自身も言うように、ある意味でそれはニヒリズムだとも言える。しかし、このニヒリズムは決して何でもありを許容するものではない。形而 上学の暴力性を回避し、文化的他者であれ、言語的他者であれ、他者を新しい者と見なすためには、そのように思惟する以外にできないはずだ ... そうした主張がヴァッティモの解釈学の核心にある。故に、弱い思想の根底を突き動かしているのは、やはりどこまでも倫理的関心なのである。

さて、こうした考え方は、ヴァッティモの世俗化の理解、あるいは宗教の回帰の理解と全く構造を一にしている。振り返れば、ヴァッティモは宗教が歴史 を通じて常に既に起源からずらされているという漂流の事態を世俗化と呼んだ。そして、その構造が宗教に内在的であり、そこから発生する宗教への回帰意識 は、決して偶然ではないと考えていた。まさに、その考え方は弱い思想という彼の哲学から導き出されたものなのである。

中間総括

やや議論が込み入ったので、これまでの議論を、彼の論理の順に沿って要約しておこう。

  1. ヴァッティモは形而上学の暴力性を忌避しようとする倫理的関心から思索を進める
  2. そのため、形而上学のメルクマールである Grund への志向のない思索が求められる
  3. よって、存在について、非-形而上学的な理解のモデルを考えねばならない。何故なら形而上学が暴力性を帯びた元凶は、存在を忘却したことだからである
  4. ハイデッガーによれば、存在とは現前するのではなく伝達・送付されるものである
  5. よって、我々が経験できるのは存在の痕跡のみである。その点で、我々は Grund なき弱い思想を貫徹することが求められている
  6. 伝達・送付される存在の痕跡を思惟する弱い思想とは、解釈学である
  7. なお、2~6の構造は、宗教の世俗化の構造と同一である

とまとめられる。

ケノーシス : キリスト教に内在する弱い思想

さて、このように議論を要約してみると、次の疑問が浮かぶはずである。「何故宗教の世俗化の構造が、弱い思想の構造と同一なのか」と。宗教の世俗化と弱い思想とが結びつく必然性などあるのだろうか。

この疑問に対してあらかじめ結論を述べてしまえば、キリスト教と弱い思想の関係は決して偶然でもなければ、単なるアナロジーでもない。キリスト教に は、弱い思想のロジックが内在しているとヴァッティモは断言する。何故そのような結論に達することができるのか、問われるべきはまさにその理由である。そ こで、そもそも「キリスト教に内在的する起源からの漂流」とは何を意味するのかという点から、順に説明していこう。

ヴァッティモは、まずキリスト教思想の成立の根拠として、当然ながら神の観念を指摘する。だが、ここでヴァッティモは、存在が把握可能な形で現前す るとは考えないのと同様、啓示による人間に対する神の現前を前提とはしない。そして、この神が現前しないという事態こそが、起源からの第一の漂流を意味す るのである。では、その根拠とは何か?それは「神の受肉」の出来事である。ヴァッティモは、神の受肉によるケノーシスの出来事を持って、キリスト教が起源 から常に既に「隔たり」を内包している、と主張するのである。

この宗教[キリスト教]は、その根拠として神の受肉という概念を有している。そして、この概念は、ケノーシスとして、即ち身を下げることとして、そしてそれを我々の言葉に翻訳すれば、弱さとして認識されるのである。(Vattimo1994: p.60)

無論、容易に推察されるように、ケノーシスという概念を持ち出すことによってヴァッティモが主張したいのは、起源が現前することの不可能性や起源へ 回帰することの不可能性のみならず、まさに神が身を下げたという「弱さ」、即ちその非暴力性である。このケノーシスという第一の起源の内に、ヴァッティモ は弱い思想の発生する根拠を見いだしたのである。

受肉、即ち神が人間の水準へ降りてきたこと-これを新約聖書は神のケノーシスと呼ぶのだが-は、以下の徴として解釈されるであろう。即ち、ポスト形而上学の時代の非暴力的で非絶対的な神が、その決定的な特徴として、ハイデッガー哲学が弱さ indebolimento と呼ぶものと同じ傾向を持っているということの徴である。(Vattimo1996: p.31)

そして、このケノーシスの出来事によって既にして方向付けられているのが、まさに世俗化という歴史のプロセスである。

世俗化とは ...... キリスト教からの悪しき逸脱とか離反として理解されるべきではない。それは、ケノーシス、即ち神の降下というキリスト教自身の真理を十全に実現したものとして理解されるべきである。(Vattimo1996: pp.40-41)

従って、ヴァッティモの考えでは、世俗化を低く評価し、神の絶対性を保持せんとする立場は、未だ暴力性を温存している。ヴァッティモの考えでは、ケ ノーシスという出来事とそれに端を発する世俗化の伝統形成が重要なのであって、神の啓示という出来事は二義的な物語に過ぎないとまで述べている。彼にとっ て、何故ケノーシスが起こったのか、何故「かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になったのか」(Phil 2:7)、それだけがキリスト教が抱える逆説なのである。

また、それだからこそ、ヘーゲルに代表されるように、このケノーシスの概念を弁証法的な Aufhebung によって「克服」のモデルへと置き戻してしまうことも、徹底して拒否されねばならない。どこまでも起源からの漂流としての世俗化として、ケノーシスの論理は貫徹されねばならないのである。

さて、ここまでヴァッティモの議論を辿れば、弱い思想とキリスト教との間に内在的な関連が存在する理由が理解できたはずである。彼にとって、ケノー シスという出来事による起源における神の退去、それが存在の退去と同質の事態なのである。また、その事態を真摯に引き受け、以後の歴史を漂流ないし屈曲の 歴史として理解することにこそ、非暴力的な弱い思想が生まれるのである。そして、ヴァッティモがキリスト教思想をケノーシスの出来事から捉えなおそうと試 みる理由、それは「ポスト形而上学の時代の非暴力的で非絶対的な神」を思惟せんとする要請なのである。

キリスト教が弱くあるために : 倫理的志向

だが、だからといって、ヴァッティモは弱い思想に基づいてキリスト教思想を再解釈することが、キリスト教を超えて普遍的に有効性を持つとは主張しな い。何故なら、弱い思想が「絶対なる第一原理」を忌避する以上、ケノーシスの神が空間的にも時間的にも普遍的なモデルとなるという主張もまた、避けられね ばならないからである。

ヴァッティモにとって、キリスト教について弱く考えるあり方とは、二重の拘束を帯びたものとなる。一方で、弱い思想にできるのは、我々に引き渡され たもの、uberliefern されたものを思惟しつづけることであるという意味で、歴史性を帯びる。従って、伝統によって引き渡されてきた聖書を解釈することは、弱い思想のロジックに 則ったものである。他方で、普遍的なる第一原理が孕む暴力性を放棄するという意味で、そして、第一の起源から常に既に切り離されているという意味で、それ は「今ここ」の偶然性を帯びる。従って、弱い思想が提示するキリスト教思想の解釈とて、「今ここ」の偶然性を免れたものではないことを、ヴァッティモは はっきりと認めている。

弱い思想に降りかかるこの二重の拘束は、アポリアに満ちた思惟を迫ることになる。弱い思想は起源に端を発する伝統を基礎とする点で、それは歴史的に 拘束されている。しかし、起源から離れ偶然今ここにいるという点で、歴史的に自由なのである。従って、伝統の歴史性のみを強調した場合、ケノーシスによる 起源との隔たりを克服できると盲信してしまう。しかし、偶然性のみを強調した場合、起源におけるケノーシスという弱さを忘却することになり、形而上学が存 在の忘却に陥ったのと同様、再び暴力性を帯びた強い思想に変化してしまう。

では、ヴァッティモはこのアポリアにどう対処すべきだと考えるか?それは、アポリアの全ての根幹にある神のケノーシスをモデルとして、キリスト教全 体について解釈し続けること、それのみが我々になし得る唯一の行為であると主張する。即ち、アポリアを克服するのではなく、アポリアを保持し続け屈曲し続 けることこそが、ケノーシスに始まる弱い思想に相応しいと考えられているのである。

こうしたヴァッティモの主張を批判的に見れば、ケノーシスの神モデルが、まさにハイデッガーが語った「根拠から根拠づける」根拠として機能している とも受け取れる。即ち、ケノーシスの神モデルを受け入れない場合、ヴァッティモの思想に論理的必然性はない。その上、ヴァッティモの思想の全体が、存在の 理解およびケノーシスの神理解をテコの支点として、循環論法になっている。その点で、弱い思想がどこまで論理的に整合しているか、まだまだ批判の余地があ る。

しかし、弱い思想とは、形而上学的な暴力性に陥ることなく、自らの伝統の外部に立つ他者へ限りなく忠実たらんとする故に要請される、倫理的な志向に 基づいた態度なのである。逆に言えば、そうした倫理的志向が、弱い思想というアポリアを生きる循環論法を動かす動因となっているのである。実際、ヴァッ ティモはこうした意識に基づき、愛の概念についての再解釈を開始しているようである。

結論

まとめよう。ヴァッティモは、今ここにある現在の状況を「克服されるべき偶然の状態」と捉えることなく世俗化を論じ、むしろそれをケノーシスの論理 によって肯定的に受け止める。何故なら、ハイデッガーが語った存在の退去の帰結と同様、世俗化のプロセスは神のケノーシスの出来事によって既に方向付けら れているからである。そして、「ケノーシスによって成立した非絶対的で非暴力的な神」というモデル、しかも、あくまでもその非普遍性が自覚されたモデルを 提供する。そのモデルこそが、異他なるものへと暴力を行使することを避けようとする倫理的関心の帰結なのだ。こうしたヴァッティモの思索は、現代社会にお けるキリスト教思想のあり方についての、とりわけ異他なるものと常に接し続ける際の一つの手がかりとなるのではなかろうか。

文献一覧

  • Borradori, Giovanna 1988; Recoding Metaphysics: The New Italian Philosophy, Northwestern U.P., 1988
  • Heidegger, Martin 1957; Identität und Differenze, Verlag Gunther Neske, 1957
  • Ricoeur, Paul 1967; "Violence et langage" Lectures 1: Autour du politique, Seuil, 1991
  • Rovatti, Pier Aldo 1989; "Elogio del pudore" Elogio del pudore: Per un pensiero debole (Alessandro dal Lago e Pier Aldo Rovatti), Feltrinelli, 1989
  • Staquet Anne 1996; La pensée faible de Vattimo et Rovatti: Une pensée-faible, L'Harmattan, 1996
  • Vattimo, Gianni 1983; "Dialettica, differenza, pensiero debole" Il pensiero debole (a cura di Gianni Vattimo e Pier Aldo Rovatti), Feltrinelli, 1992
  • - 1986; "Métaphysique, violence, sécularisation" La sécularisation de la pensée (sous la dir. de Gianni Vattimo, trad de l'italien par Charles Alunni), Seuil, 1988
  • - 1994; Oltre l'interpretazione, Editori Laterza, 1994
  • - 1995; "La trace de la trace" La religion (sous la dir. de Jacques Derrida et Gianni Vattimo), Seuil, 1995
  • - 1996; Credere di credere:È possibile essere cristiani nonostante la Chiesa?, Garzanti, 1999

なお、ヴァッティモの詳細な文献一覧は、彼のWebサイトに掲載されている
http://www.giannivattimo.it/menu/f_bibliografia.html