アンリのハイデガー批判(佐藤 啓介)

内なる道:アンリのヨハネ解釈

 

La Voie intérieure (内なる道)

ヨハネ、アンリ、現象学(1)

わたしは道であり、真理であり、命である。(John 14: 6)
プロローグによれば、生は神である。生と全く同様、神は自己啓示する。(2)
はじめに
1. 現象学(1): 現象=学
2. 現象学(2): 現象性 → 現象化
3. 原-啓示=自己触発=生
4. 原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言
5. 御言 ≠ 学
6. 神 / 子 / 私
7. 神 ←→ 子
8. 神 →→ 私
Adieu à Henry
Note ・ Bibliography (別ページ)
【注意書き】
1ページあたりのファイル容量を抑えるため、注・文献一覧は別ページにあります。対応させながら読まれたい方は、別ウインドウで開くとよいかと思います(申し訳ないのですが、手間を削減するため、一つ一つの注にリンクをはるといった作業はしておりません)。
【要約】
本発表は、アンリの現象学の基礎構造を踏まえた上で、彼のヨハネ福音書解釈の中心問題を明らかにすることを目指したものである。まずアンリの現象学の根本 問題が「現われることが現われること」の解明にあることを明らかにした上で(1~3章)、アンリがそれをヨハネ福音書で述べられている諸概念(神、独り 子、御言)とどのように関係付けるかを探る(4章)。そして、アンリ的にヨハネ福音書を解した場合、その解釈から引き出される具体的内実とは如何なるもの なのかを、ロゴス解釈の問題(5章)、神・子・我々間の関係性の問題(6-8章)に絞って解明する。最終的に明らかになるのは、アンリにとってのヨハネ神 学とは、「生の神学」にほかならないという結論である。

はじめに

宗教的な事柄は、一般的に私を超えるもの、即ち私の「外dehors」との出会いの中で捉えられる事柄だと理解されることが多い。例えば、神との出 会い然り。神による啓示もまた然り。それらは、出会いという以上、とにもかくにも「私に現われてくる」という様態で理解されることになる。即ち、「現象」 という様態である。しかし、それとは異なった様態で起こる宗教的(と呼ばれ得る)経験はないのだろうか。私の「内dedan」において起こっている出来事 に何らかの宗教性――私がなすのではなく、私をなすような性質――を認めることはできないのだろうか。そして、私のうちにおいてそうした出来事を探求する 道はないのだろうか。

そうした関心のもと、本発表で取り上げるのは、フランス現象学の泰斗にして透徹した内在の哲学者M. アンリのヨハネ福音書解釈である。彼は、今年の7月に80歳で亡くなったが、亡くなる10年ほど前から精力的にキリスト教哲学の研究を推し進め、『我は真 理なり』(1996)、『受肉』(2000)といった著作を公刊している。彼がその際に最も注目したのが、他ならぬヨハネ福音書であった。アンリは「生 vie」や「内在immanence」をキーワードとしながら、X. ティリエットの指摘を借りれば、ヨハネ福音書を基盤として良くも悪くも徹底して「哲学的」キリスト論を展開した(3)。本発表では、アンリのヨハネ福音書 の解釈とは如何なるものなのか、そのエッセンスを明らかにしてみたい。資料としては、残念ながら先に挙げた2著作を詳細に分析するには至っておらず、それ に先立ついくつかの論文を検討の対象とする。また、その予備作業として、ヨハネ福音書解釈の前提となっているアンリ現象学とはどのような現象学なのかを明 らかにするために、彼のハイデッガー批判を中心として、彼の基本的立場を論じることにしたい。

1. 現象学(1): 現象=学

アンリは、フランス現象学の中では、比較的最近まで孤立した存在であった(4)。フランス現象学といえばサルトルメルロ=ポンティレヴィナス、 リクール、デュフレンヌらの名前が思いつくが、アンリは彼らほどの影響力は振るってこなかった。また、彼らはアンリより年上だが、アンリよりも若いデリ ダ、マリオン、クレティアンらが一つの潮流を形成していく中でも、アンリは半ば取り残されていった感が強い。その大きな理由は、63年の大著L'essence de manifestation(顕 現の本質)以後一貫する、アンリ現象学の独自のスタンスにあると言えるだろう。レヴィナスやマリオンらがこぞって「他性」「外」を志向するのに対し、後に 見るように、アンリは徹底して「内在」を目指した。また、リクールやデリダが「言語」「テクスト」という対象に着目したのに対し、アンリはひたすらに 「生」という前言語的な概念をキーワードとして用い続けたからである(5)。

それでは、アンリの現象学とはどのような現象学なのだろうか。我々は、アンリの90年の論文「現象学的方法」を主な典拠としながら、アンリが批判の 俎上にあげるハイデッガーとの比較の中で、アンリの現象学の基本構造を押えていくことにしよう(6)。まず本章において、ハイデッガー現象学理解を確認 し、次章でアンリのハイデッガー批判と彼自身の現象学理解を論じることにする。

現象学の公式として"Zu den Sache selbst"という原則が採用された記念碑的テキスト『存在と時間』第七節「現象学的研究方法」において(7)、ハイデッガーは、存在の問いに見合った 方法としての現象学の予備概念を精練するべく(8)、現象Phänomenと学Logosという二つの概念それぞれの成り立ち、そしてそれらの結合した概 念としての現象学という概念について分析をおこなっている。まずは現象概念から。ハイデッガーギリシャ語に立ち帰りつつ、現象という語を以下のように解 している。

それ故、現象Phänomenという表現の意味として、自らを自ら自身において示すものdas Sich-an-ihm-selbst-zeigende、明白なものdas Offenbareが確認されるべきである。続いて、Phänomeneとは、白日の下にあるものwas am Tage liegeないし光にもたらされ得るものwas ans Licht gebracht werden kannの総体、つまり、ギリシャ人がときおり単純にdas Seiendeと同一視したものの総体である。(9)

ここで定義された現象とは、より正確に言えば「現われるものce qui apparâit」のそれである。しかし、現象という語は、しばしば「現われることl'apparâitre」としても用いられる。上記の引用からも伺える通り、ハイデッガーの考える「現われること」とは、自らを示すことsich zeigenが第一義であるが、ハイデッガーはさらにこう付け加えている。

phainesthai [=sich zeigen]自身は、白日にさらす、明るみにおくを意味するphainoの中動相である。そして、phainoは、光、明るみ、即ち、そのうちで何かが明らかになり、それ自身において見えるようになり得るところdas, worin etwas offenbar, an ihm selbst sichtbar werden kannを意味する語根pha- ないしphos- に属している。(10)

この言明の最後の言葉「に属しているzu ... gehoren」をどう解するかが微妙なところなのだが、アンリは、このハイデッガーの言明を「ハイデッガーは現われることを、光そのもの、全てを照らすものと見なしている」と解釈する。

今や限定的に、つまり、ギリシャ的に、現われることは光、明るみ、全てを照らすものを指し示すのである。そして、[照らされる]全てのものは、その照明の下で、その光の中で、見えるようになり、その意味で、現象となるのである。(11)

このように「現われること」を解釈したことは、アンリにとって大きな意義を持つ。その意義とは、光としての現われることと、光によって照らされるも のとしての現われるものの間に、隔たりが生まれることである(12)。さらに言えば、光とは、自らとは異なり、自らの前にあるもの、自らの外にあるものだ けを照らすことになる。即ち、現われるものは、常に現われることの外に、距離を保って留め置かれることになるのである。この隔たりをアンリは「現象学的隔 たり」とも呼び、常に批判の矛先の向かう箇所となるのであるが、ともあれ、現段階ではハイデッガーの現象理解から、現われることと現われるものの隔たりが 帰結することを確認しておこう。

さて、ハイデッガーによる現象学概念の検討は、続いて、学、即ちlogosの検討に向かう。ハイデッガーらしく、やはり始まりはギリシャである。アリストテレスを参照しながら、ハイデッガーは以下のように言う。

ロゴスとは、etwas sehen lassen、即ち、話されている事柄を、話しているもの(媒体)に対して、いやむしろ、互いに話しているものに対して見させるのである。話しは、話されている事柄それ自体から「見させる」のであるDie Rede »last sehen« von dem selbst her, wovon dir Rede ist。(13)

もっと端的に言えば「指し示しながら見させるという意味での顕わにすることOffenbarmachen im Sinne des aufweisenden Sehenlassens」が(14)、ロゴスの基本構造である。

さて、お気づきの通り、このロゴス定義は、先の現れることの定義と見分けがつかないほどに類似している。そのことは、ロゴス定義に続くハイデッガー現象学の定義に、はっきりと見て取れる。

「現象」と「ロゴス」の解釈の中で強調されたことを具体的に思い浮かべると、これらの名称によって考えられたものの内的関係がはっきりとする。現象学という表現は、ギリシャ的には以下のように定式化される。legein ta phainomenaと。legeinとは、apophainesthaiの謂いである。とすれば、現象学とは、apophainesthai ta phainomena、即ち、自らを示すものを、それが自らによって自らを示す通りに、自らによって見させることdas was sich zeigt, so wie es sich von ihm selbst her zeigt, von ihm selbst her sehen lassenである。(15)

ハイデッガー現象学を構成する二つの概念「現象」と「ロゴス」に、このようにして内的連関を見て取る。その内的連関をなしている共通性とはまさし く、「現われること」という現われ方が両者に共通している点である(16)。そのことを如実に示しているのが、ハイデッガーの「根本的にはトートロジー的 表現である『記述的現象学』」という言葉である(17)。記述がロゴスに関わる以上、ロゴスと現象の本質が同じであれば、記述的なという形容詞をわざわざ 付け加えるのはトートロジーだ、という次第。それを受けてハイデッガーは、形式的には現象学的記述を以下のような方法として定義できるとする。

ロゴスの特殊な意味である記述そのものの性格は、「記述される」ものの「事象性Sachheit」、即ち、現象との出会い方Begegnisartのうちで学問的規定へともたらされねばならないものの事象性から初めて確定できるのである。(18)

要約すれば、現象学の「方法」である記述は、現象学の「対象」、即ち記述されるべき現象の事象性によって定義されるのである。つまり、現象学の方法と対象が、同一ということになる(19)。

では、アンリは、こうしたハイデッガー現象学理解のどこに問題を感じたのだろうか。

2. 現象学(2): 現象性 → 現象化

アンリによるハイデッガー批判において特に重要なのは、1. 現象概念の検討において確認した、現われることと現われるものの間の隔たり、2. 現象学概念の検討において確認した、現象とロゴスの本質の同一性、3. 同じく現象学概念の検討において確認した、現象学の方法と対象の一致、この三点である。これら三点を逆に辿れば、現象学の方法と対象が一致するのは、現象 とロゴスの本質が同一だからであり、現象とロゴスの本質とは現われることであり、その現われること自体は現われた現象やロゴスとは隔たっている、とまとめ られる。

ここでアンリは問う。「ハイデッガーの主張を鵜呑みにした場合、現象学の方法は現象学の対象によって規定されることになる(20)。とするならば、 現象学の方法と対象の一致性を構成する『現われること』それ自体には、一体如何にして現象学的に近づくことができるのだろうか」と(21)。アンリの問い を反芻しよう。ハイデッガーによれば、現象学の対象とは、「現われること」によって可能になる「現われるもの」である。そして、それが現象学の方法を規定 しているのだった。とするならば、当の「現われること」それ自体は、現象学的に接近することが不可能になってしまうではないか。何故なら、現象学の方法 は、既に現われるものによって規定される以上、その背後へ遡ることができないからである。故に、アンリは、現われることという性質を純粋現象性と呼びかえ た上で、こう主張する。

……現象学が実質的になり、純粋現象性の現象性phénoménalité de cette phénoménalité pureが現象学的にはどこに存するのかを厳密に述べようとするや否や、現象学の対象とその方法の同一性は、たちまちその明証性を失うのである。(22)

ここでアンリが「純粋現象性の現象性」と呼ぶものは、「『現われること』を可能にする『現われること』」と言いかえられる。ハイデッガーにおいて見 られた「『現われるもの』を可能にする『現われること』」とは、語られている事柄が、似て非なる点に注意してほしい。ハイデッガーのように現象学の方法と 対象の同一性を認めると、両者が「現われるもの」に依拠する以上、それとは隔たっている「現われること」は問えなくなってしまう。アンリは、まさにその 「現われること」それ自体が如何に現われるかを問おうとしているのである。それが、「現象学が実質的になる」という言葉の意味でもある。繰り返そう。アン リの現象学、実質的現象学とは、「現われることによって可能になる現われるもの」を問うのではなく、「現われることが如何に現われるか」即ち「現象性の現 象化phénoménalisation de la phénoménalité」を問うのである(23)。

そのため、現象性の現象化、現れることが現れることには、従来の意味での現われ方とは「別の現われ方」が考えられねばならない(24)。逆にいえ ば、現象とロゴスに共通して君臨する「たった一種類の現われること」という前提それ自体を崩さねばならない(25)。ただし、別の現れ方といっても、それ はネコだと思われた像が、実はよく見たらイヌだったというような「現れる像の内容の差」を言うのではない。また、目の前のネコについての知覚表象と目の前 にいないネコについて想起した想像表象とは異なるといった「志向性の差」「意識のあり方の差」を言うのでもない。アンリがいう別の現れ方とは「現れる様態 の差」によって弁別されねばならない(26)。

それでは、そのためには何が問い直されねばならないか。それは、現象概念の根底をなす「現われることと現われるものの隔たり」である。そして、それ に付随する光のメタファーに関する諸概念である。何故なら、現われることが現われる際に、「現われることが現われたこと」と「現われることが現われたも の」の間に隔たりがあっては、結局、その方法が対象によって規定される従来のと違いがなくなり、現われることの現われたことは、現われることの現われたも のの背後へと逃れ去ってしまうからである。

アンリは、この「隔たり」を生む根源的な前提を、二点にまとめる(27)。第一に、現われるものは、現われることによって「外」の光へともたらされ るという前提。これは、ハイデッガーの現象=ロゴス理解において顕著であった。第二に、その第一の前提に既に含まれている暗黙の前提として、現われたも の、現象は、いわば二度目のものとして呈示されるという前提。何故二度目かといえば、現われるものが現われることによって現象する以上、それは現われるこ とによって現象となる以前は、何らかのあり方をしていたことになるからである。文字通り、表象re-presentationである。現われることが現わ れるためには、アンリは、この二つの前提に拠らない別の現われ方を考え出さねばならない。そしてまさにアンリは、その「別の現れ方」を、顕現 maniféstationないし啓示révélationと呼ぶのである。故に、アンリに言わせれば「啓示の概念は根源的な意味で現象学的」なのである (28)。さらに話を先取りして付け加えれば、そうした別の現れ方としての啓示概念こそ、アンリがヨハネ福音書に見出したものなのである。

3. 原-啓示=自己触発=生

しかし、啓示という語はいささか紛らわしい。何故なら、啓示とは、「我々の外部から」神が我々に何かを示したこととも受け取られかねないからであ る。故にアンリは、しばしば彼の意味での啓示を「原-啓示Archi-révélation」と呼ぶ(29)。以後で私が啓示という語を用いる際も、すべ てこの原-啓示の意味で用いる(30)。

それでは、啓示という別の現れ方をどのように考えるべきか。アンリの発想はある意味で至ってシンプルである。ハイデッガー的な現象概念が前提としていた「外在性」および「再現性」が妨げになる以上、その前提から離れればよいのである。

まず、外在性という前提から離れよう。現われることが現われる仕方自体は、「外に」現れるのではなく、「内に」現れるのである。どこの内側か。それ は意識ではない。何故なら、意識とは何者かについての意識である以上、そこには既に「隔たり」が内包されているからである。アンリは、啓示という別の現れ とは、意識ではなく「生Vie」において生じる出来事であると定義する(31)。アンリ哲学において、この生という概念こそが、全てを支える鍵概念とな る。このようにして、アンリは啓示の概念を、従来の「外在」「脱-自Ek-stase」「超越」のモデルではなく、「内在」の論理によって捉え直すのであ る。

続いて、再現性という前提から離れよう。現われることが現われる仕方自体は、何かが現われたものではなく、その背後に原因がないような自己原因とし て理解されねばならない。即ち、啓示そのものを可能にさせる、さらなる起源などない。何故なら、既に繰り返し述べてきたように、一切の現われの根源にある のが啓示、まさに原-啓示である以上、それを現せしめる働きを想定することはできないからである。さもないと、無限背進に陥ってしまうのは目に見えてい る。従って、アンリの言う啓示とは、それ自体が根源的で起源的な働き、「それ自身が現われることによって、自身の現われを可能にする」働きでなければなら ない。つまり、「自己啓示」でなければならない。アンリは、啓示の起こる場である生そのものが、まさにその自己啓示の働きを本質としていると主張する。

生の本質、それは生が自ら啓示するse révèeerことである。即ち、啓示をおこない、啓示をするのが生であり、他方で、この啓示の中で生が啓示するのが生そのものであるということだ。要す るに、生とは、啓示し啓示されるのだ。生とは自己啓示auto-révélationである。(32)

ただし、ここで誤解なきよう断っておけば、この自己啓示する生は、それが「現われることの現われること」であるとは言え、決して見えない。何故な ら、原-啓示は、通常の意味での現象はしない。そして、ハイデッガーの指摘にある通り、通常の意味での現象とは、光へともたらす働き、「見させる」働きに よって可能になっているのだった。故に、生は見えない。逆だ。生が見させるのである(33)。

超越のようなものが可能になるのは、この根源的な内在という唯一の根拠に基づいてのみなのだ。見ることが成就するのは、……見ないことnon-voirという形によってのみであり、故に、見られないnon-vuという形、見えないinvisibleという形によってのみなのだ。そして、この見ないこと、見られないもの、見えないものとは……現象性の第一の現象化である。つまり、一前提ではなく、非脱自的でかつ抗いようのないパトスとしての我々の生そのものなのだ。(34)

だが、ここで批判があるかもしれない。なるほど自己啓示する生が根源的な働きだとはいっても、それでもなお、それが現象することは可能ではないか、 即ち、生は、現われることによって現われるものになることも可能ではないか、と(35)。しかし、その批判は必ずしもアンリの議論を揺るがすものではな い。というよりはむしろ、アンリの必然の帰結である。何故なら、生が、一切の現象の可能性の条件である以上、生自身が現象することを拒むものではないから である。ただし、そこで現象し表象された生とは、他の現象と同じく「二度目の」ものであり、原-啓示とは異なるものであることは言うまでもないが (36)。

しかし、アンリがいくらそれを原-啓示なり自己啓示と呼ぼうとも、啓示という概念は、まだ「啓示するものと啓示されるものの間の隔たり」を完全には 拭い去れないニュアンスが残るかもしれない。だが、アンリは、さらに内在の論理に相応しい概念を生に与えている。それは既に引用した文章中にもあった「触 発affection」である。触発とは、文字通り一切の隔たり、一切の距離のない直接性をより適切に表現している。そして、アンリは生とは自己触発だと 定義する。つまり、生は、生自身を触発することによって、生自身が触発されるのである(37)。

だが、このように述べると、生の自己触発は全くもって理解できない概念であるかのように聞こえるかもしれない。しかし、ここで私が強調したいのは、 生とは、他ならぬ我々もまたその中で日々生きているまさにこの生のことだという点である。アンリの言う生とは、決して未知の世界の事柄ではないし、理論的 にでっち上げた概念装置でもない。それは、この生そのものなのだ。しかし、生そのものは決して見えない。故に、我々はそれを表象化することで満足しようと してきたのである。無論、時として、その表象こそが生そのものだと錯覚しながら。アンリがこうした観点からマルクスを読み、実践を論じてきたことを考え合 わせなければ、我々はアンリの考える生のリアリティを見失ってしまいかねない。アンリのその現実への眼差しを典型的に示す言葉を引用しておこう。

初めて人間たちが互いに穏やかに歩み寄り、乾燥皮の束、穀物の袋、塩の袋を互いに持ち寄ったとき、彼らは目をぱちくりさせた。何故なら、彼らは決して見えないものを見なければならなかったのだから。即ち、それらの商品に含まれた労働、生きた労働le travail vivantを。こうした理由で、各人の見えない主観的実践、努力、労苦の代わりに、彼らは自分たちの眼差しの前に努力と労苦の等価物だと想像したもの、即ち、それらの表-象を置いたのである。(38)

以上で、ハイデッガーとの比較を手がかりとして、アンリの現象学の基本構造は押えられたであろう。それを端的に表現すれば、本章の表題の通り「原- 啓示=自己触発=生」とまとめられる。ここまでの議論はアンリ哲学一般の事柄であり、これからの議論こそが、アンリのヨハネ解釈に関わる領域である。よう やく、本題に入る。

4. 原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言

既に予告していた通り、アンリは自らの原-啓示概念が、ヨハネ福音書においても語られていると考える。結論を先取りすれば、アンリは、私が前章にま とめた定式「原-啓示=自己触発=生」に、ヨハネ福音書の重要概念である「=神=独り子=御言」を付け加えていく。そして、この定式のもとでヨハネ福音書 の言葉を読み進めていくのである(39)。それゆえ、アンリの読みには、福音書成立の歴史的・影響史的背景は一切不要である。故に、本発表でも、そうした 背景は一切黙殺する。なるほど、アンリには、リクールなどとは違って、解釈学的な基礎が全くもって欠如している。故に、彼の読みは、ある意味で極めて強引 である。しかし、とりあえずその強引さは脇において、まずはアンリが述べている論理をできるだけ忠実になぞっていこう。

さて、ヨハネ福音書において注目されるべきは、プロローグである(40)。アンリはとりあえず「言は神であった」(1:1)、「独り子である神」 (1:18)から「神=独り子=御言」図式を抽出した上で、神の現われとは文字通り、別の現われ方、即ち自己啓示にほかならないと指摘する。その根拠は、 14-15節および18節である。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(1:14-15)
父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(1:18)

この節を、アンリはまさに「自己啓示」として解釈する。

キリストが、自らがイエスとして現われることによって、神を顕現させたのである。(41)

つまり、イエスが世に現われたこと、それは、神が現したことであり、かつ同時に、神を現せしめること、というわけだ。故に、ヨハネ福音書のプロロー グは、アンリの言う啓示の基準「自己啓示」をパスしている。それどころかアンリは、「神が神自身ではないあれこれの何かを啓示したと述べる一切の命題は、 戯言に過ぎないか、或いは冒涜でさえある」とまで明言している(42)。

また、アンリは、神が自己啓示であることをもって、半ば自動的に「原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言」という定式を完成させてしまうのだが (43)、恐らく言及こそないが、その定式のうち「生」が神などと結び付けられる背景には、「言葉のうちに命vie[=生]があった。命は人間を照らす光 であった」(1:4)があるのだろう。加えて、「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)も考慮されているのは間違いない(44)。

ともあれ、このようにしてアンリは、ヨハネ福音書の言葉を、自らの生の哲学と直結させる。だが、当然ここで我々が考えねばならないのは、単に先の定 式が完成したか否かという、くだらない問いではない。問われるべきは、アンリが先の定式を立てたことによって、どのようにヨハネ福音書の他の箇所が解釈さ れるかであり、それ以上に重要なのは、その解釈が一体どのような事柄を指し示しているのかを理解することである。何故なら、前節で確認した通り、生とは、 他ならぬこの我々の生きる生のことであった。となると、アンリは「我々は神だ」とでも言いたいのか。ましてや、生が神であるというのなら、同時に生は独り 子でもあるはずだ。となれば、その生を生きる我々は神の独り子だとでも言うのだろうか。また、先に我々はハイデッガーにおいて、現象とロゴスとが本質を一 にしている点を確認した。それはともに「見させる」働きなのだった。言うまでもないが、その見させるという働きは、生の自己触発によってのみ可能になるの だった。となると、先の定式化の中で、御言が生などと同列に並ぶことは許されるのだろうか。以上の疑問をまとめれば、定式化をしたことによって疑問符がつ くのは、第一に、生と神、子、我々の関係であり、第二に、生とロゴスの関係である。

繰り返そう。我々が思惟するべきは、定式化の事実ではなく、定式化の内実である。

5. 御言 ≠ 学

さて、もう一度問題を反芻しよう。アンリの定式「原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言」において、前半部分はアンリ自身の哲学から、後半の部 分はヨハネ福音書から組み立てられた。そして、アンリは神が自己啓示することをもって、二つの部分を接合させた。しかし、アンリは既に、ハイデッガー批判 の文脈で、言葉、ロゴスが現象と同じく「見させる」ことを本質としていることを確認済みのはずである。となれば、原-啓示とロゴスは、相容れない概念のは ずである。アンリは、この矛盾を如何に解決するのか。

その答えはある意味で、アンリが現象性の現象化を解決した手法とほとんど同様の道を辿る。現象性の現象化のためには、通常の現われ方とは異なる原- 啓示という別の現われ方が必要だった。アンリは、それと全く同様に、言葉にも、ハイデッガーが理解したようなロゴスのあり方とは「別の言葉autre Parole」が存在すると考えるのである。アンリは、前者のロゴスを「世界の言葉parole du monde」と呼んだ上で、後者の別の言葉を「神の言葉Parole de Dieu」と呼ぶ(45)。既に確認した通り、現象とロゴスは同一構造をなす以上、世界の言葉は現象と同じ特徴を持つ。即ち、外在性と再現性である。具体 的に言えば、世界の言葉は、何かについて語り、それによって、語られたもの、光によって照らされたものが、世界という外へと出来する。即ち、その語られた ものは、語ること、即ち光とは隔たっている。そして、その語られたものは、既に何らかの仕方で在るものを、文字通り、表-象したものである。他方、神の言 葉、これはもはや言うまでもなくヨハネ福音書において指し示されている御言に他ならないのだが、それは、自己現象化se phénoménaliserすることで、外在性と再現性を免れるのである。要するに、定式化がまさに示すとおり、神の言葉とは、即、生そのものなのであ る。故に、

言の内に命があった。(1:4)

の箇所は、言葉が生を外から包摂していると捉える必要はない。何故なら、生はそれ自体が既に、外なき内在だからである。

しかし、それでは神の言葉とは、一体何について語るのか。言うまでもなく、生について語るのである。では、誰が語るのか。言うまでもなく、生が語る のである。生が、生について語るのである(46)。それが、神の言葉なのだとアンリは言う。しかし、それは果たして言葉と呼ぶべきものなのだろうか。その 問いに対する回答は、ある意味でいかにもアンリ的である。即ち、神の言葉という語によって、世界の言葉とは別の言葉を考えねばならない以上、従来の言葉の 概念に即しているほうがおかしい、と。

生は神の言葉である。しかしながら、言葉という語のもとで、少しでも人間たちが語っている言葉と似た何かを解することを止めない 限り、生を神の言葉そのものとして理解することは不可能である。それでも確かに神の言葉は、世界の言葉と一つの共通する特徴を示している。それは、神の言 葉が一貫して現象学的であることだ。故に、神的な言葉の言うことle dire de la parole divineは、啓示なのだ。(47)

最後の「神的な言葉の言うこと」の「の」は、主格の「の」であり、かつ、対格の「の」であると解釈すべきだろう。これがまさに自己啓示なのだから。

このようにして、アンリは御言が先の定式の中に並べられることを、彼なりには保証したことになる。その保証の仕方は、悪く言えば、アンリの構図に全 てを回収しただけのようにも思えるし、アンリが何と言おうともその批判は免れ得まい。アンリは、ハイデッガー的な仕方でのロゴス理解は、むしろロゴスの本 質を歪めているとまで言うが(48)、その批判は、そっくりそのままアンリにも突き返されるからである。

なお、それが言葉である以上、理解される可能性はないのかという疑問もあるだろうが(49)、その可能性は後で検討することにするとして、むしろこ こで注目すべきは、神の言葉が生そのものである以上、我々の語る世界の言葉の本源的地点でもまた、それが顕現したはずなのである。その点で、ヨハネのプロ ローグが参照されるべきだろう。

万物は言によって成った、成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1:3)

神の言葉は、決して万物――今の文脈であれば世界の言葉――とは無縁の言葉ではない。

また、そうである以上、アンリのいう神の言葉理解を踏まえるならば、ハイデッガーとは全く異なった次元において、現象とロゴスの同一性が確立される ことになる。即ち、ハイデッガーにおいては「見させる」という点で両者が同一視されたが、アンリにおいては、「自己顕現する」という点で両者が同一視され るのである。故に、アンリはアンリなりに、現象学の対象=生と、現象学の方法=神の言葉とを一致させている(50)。だが、神の言葉が現象学の方法である とは如何なることなのか。というか、それは一体どのような「如何にwie/ comment」であり得るのか。その疑問は、第8章において取り上げることにしよう。

6. 神 / 子 / 私

さて、思い出そう。アンリの定式「原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言」において、そもそも、アンリのいう生とは現れること自体の現われで あった。すると、この生、しかも神と同一視された生とは、我々に現われるものだと呼びうるのだろうか。アンリがそこで注目するのが、ヨハネ福音書の次の箇 所である。

いまだかつて、神を見たものはいない。(1:18)

そうなのである。なるほど、我々は生の中で生き、それを常に感じている。しかし、我々は生という「純粋なる働きActe pur」の作用を被っているのであって(51)、生それ自体を把握しているわけではないし、ましてや、我々が生を触発し産み出しているわけでもない。否、 全く逆なのだ。生に対し、神に対し、我々は絶対的に受動的な立場に、常に既に遅れた立場にあるのだ(52)。既に述べたとおり、見ることは、生の働きに よってのみ可能になるのだから。アンリは18節の言葉をこのような「我々に対する生の先行性」という事態の表明として解釈する(53)。

この辺りの事情を詳しく整理しておこう。アンリは、自己触発としての啓示によって初めて一切の現象が可能となったのと同様、生によって我々が触発さ れ、我々が生まれると考える(54)。この我々なるものは「子らles Fils」、あるいは「単独の自己Soi singulier」とも呼ばれる。ただし、生まれるといっても、その誕生は文字通りの意味での誕生ではなく、「我々の経験が可能となる条件が発生する」 という意味での誕生、即ち「超越論的」誕生のことである(55)。また、その誕生が「超越論的」誕生である以上、この生まれた子もまた、いわゆる自我とか 呼ばれる「意識を持つこの私」のことではなく、我々の経験に先立ち、経験の成立を可能とさせる条件としての子、超越論的な子である。アンリは、そのような 「経験を可能とさせる条件」である子を、自我としての経験的なこの私とは区別して、超越論的原-子Archi-Fils transcendantalと呼んでいる(56)。アンリに言わせれば、福音書が全体として語っているのは、「我々が超越論的には生という神から誕生し た子である」という命題にほかならない(57)。

このようにまとめることで、アンリの思想の中で、1. 生としての父なる神、2. 神から生まれる(超越論的な)子、3. 経験的な存在者としての我々、の三つのクラスが区分されたことになる(58)。先に見た「神を見たものはいない」(1:18)という個所も、1と3のクラスの違いとして解釈すべきだろう。

ただし、ゆめゆめ忘れてはならないのだが、この1~3は、空間的に言えば、全て我々の「内」において現成することである。我々を離れたどこか遠くに 生があるわけではない。故に、アンリはヨハネ福音書を、「生の内にある我々の超越論的状態」が神学的-神話的に語られたものと見なし、それを彼の哲学の言 葉へと翻訳しているのであって、決して歴史的物語として捉えてはいないのである。(59)

以上を確認した上で、ひとまず3のクラスは脇におき、アンリが1と2のクラスの関係をどのように考えているかを考えていこう。

7. 神 ←→ 子

さて、1と2のクラスが「誕生」を源泉として区分されるといっても、子が生から離れて生の外に到来した、ということを意味するのでは決してない (60)。確かに、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)という一文を読むと、そのように子の誕生を理解したくな る。しかし、「父のふところにいる独り子である神」(1:18)という語に注意を向け、アンリは言う。「この一節には、子に関して、彼を生の外、即ち世界 に帰属せしめる要素が一切見当たらない」と。(61)

アンリは、父なる神と子とを分離させることを、このように断固として拒否する。空間的に語ることが許されるならば、アンリは両者を同一の場に内在させるのである。アンリはそのような事態を、「父と子の現象学的相互内在性intériorité phénoménologique réciproque」と呼ぶ。そして、この事態はとりわけ、ヨハネ福音書14章において明確に述べられていると主張する(62)。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。(14:7)
……わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。(14:9-10)

啓示が内在の論理で成立する以上、神も子もまた、内在の論理でしか考えることができないのである。生の中に生からの「隔たり」が生まれてはならないのだ。

しかし、父なる神と子とが相互内在的であり、かつ、父から子が生まれるというのは、奇妙な事態と思われるかもしれない。何故なら、父から子が生まれ る以上、子は父よりも遅れた立場にあるように思われるからである。この点にこそ、アンリの「誕生」の概念が持つ複雑さがある。確認すれば、生は自己触発す る。それを言いかえれば、生は常に自らの手で自らを発生させている。そして、そこから発生するのが、超越論的原-子であった。

絶対的生の自己生成の中で生成する単独的自己、それは、最初に生まれた子であり、私が超越論的原-子と呼ぶものである……。(63)

なるほど、このように記すと、生の自己生成とそれに続く子の誕生との間には、いわば「時差」があるかのように思われる(64)。事実、アンリは生の自己生成を、「絶対的過去passé absolu」「絶対的忘却Oubli absolu」と形容することを厭わない(65)。

だがアンリは、一旦は肯定したはずの父と子の間の時差を自ら否定し、父と子の相互内在性を確立させる方向へ舵を切る。そもそも、超越論的誕生の概念 に「時差」という「時間的」表象は相応しいのだろうか。超越論的誕生とは、それが超越論的である以上、計測可能な時間の中で起こる時間的出来事であるはず がないのだ。アンリは、通常の意味での子の誕生と比較して、超越論的誕生について以下のように述べる。

人の時間・歴史の一点しか指し示さない我々の人としての誕生とは異なり……[生の]自己触発が生み出されない限り、絶対的生の自 己触発の中で自己触発されたものとして自己[=子]が自己へと到来することも生み出されない以上、超越論的誕生は止むことがないはずである。「子であるこ と」とは、かつて起こって今は過ぎ去った何らかの出来事の結果を意味するのではない。「子であること」は、条件conditionを意味するのだ。つま り、それとの繋がりを断つこともできず、それを買いだめしておくこともできないような条件のことなのだ。(66)

言いかえれば、生の自己触発は常に不断の生成転変として、永遠的に続けられている(67)。故に、その不断の生成転変の中で子の状態もまた触発され 続ける以上、そこに時差などないではないか、というわけだ。生の自己触発と子の誕生は、常に同時に不断に続けられる、故に、両者は相互内在的だ、というの がアンリの主張である。

このようにして、アンリは、父と子の間に現象学的相互内在性を確立する。それは同時に、「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であっ た」(1:1)にある「ロゴスが父と初めから同時にいる」という、古くから問題となっていたテーマを、彼なりに解決したことをも意味する(68)。しか も、誕生という永遠の過程がほかならぬ生という同一の場で繰り広げられる以上、そこで生まれる子は、1:18にある通り、「独り」と形容されるべきだと考 えたのである。

生の自己触発の過程がその中に原-子を生成せずには遂行されえない以上、原-子はその過程と同時的であり、さらに、父と同じ年の はずである。そして、原-子は初源から存在するのだ。そしてキリスト教は、まさに我々が述べたように、初めから座している子、原-子という逆説的概念を、 表現している。[そして]……唯一である生une seule Vieしか存在しない以上、その生の自己触発のなかで同時発生する子もまた、独りUniqueなのだ。(69)

8. 神 →→ 私

さて、6章での議論を思い出そう。そこでは、三つのクラス(1. 生としての父なる神、2. 神から生まれる(超越論的な)子、3. 経験的な存在者としての我々)を区別した。そして、それを受けて7章では1と2の関係を考えたのだった。そこでの議論は、文字通り「超越論的」な領域の議 論に止まり、実際の我々、即ち経験的な我々は議論に入る余地がなかった。アンリ自身の言葉を借りれば、そこで打ち立てられたのは「父と子の現象学的相互内 在性という関係内で続けられる絶対的-永遠的浄福の自給自足体系」であり(70)、これは「世の人間」とは隔絶された境地といった感がある。それでは、残 された第三のクラス、経験的な我々は一体どうなるのだろうか。また、この問題は同時に、5章において手付かずのままにしておいた「神の言葉」の問題を再度 取り上げることをも意味する。そこでは二つの問いを保留したままだった。まず、我々は、神の言葉を理解し得るか。続いて、神の言葉がアンリ現象学の方法で あるとは、どのような方法なのか。それらの問いは、結局、経験的な我々が如何に自己触発としての生と関わるかという問いに帰着するのだ。本章の主題もそこ に集中するとしよう。

アンリ自身、この問題には気がついている。そして、自問し、アンリなりに答えを模索する。

問われるべきは、如何に世の人間がキリストとの関係および神との関係に入り得るか、そして、――キリストが彼らに啓示し得たように――如何に救われ得るかということである。(71)

このアンリの言葉に、我々が保留しておいた問いは集約される。神の言葉を理解することとは、この経験的な我々が神との関係に入ることにほかならない。そし て、現象学の方法とは、まさに神の言葉に、神の関係に入ることそのものなのである。アンリは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)を 念頭におきながら、まさにそれが「道」だという。その道に入り込むことこそが、現象学の対象であり、同時に方法なのだ。

……[神の言葉としての]ロゴスは間違いなく、純粋現象性と同一であり、それに基づいている。現われるその作用の内で現われるこ とこそが、現われること自身へと導くのであり、それが即ち、道Voieである。……ここではもはや、[ロゴスの]共通の本質をここかしこに見つけ出す必要 などない。必要なのは、ロゴスの内的本性の内へと入り込むpénétreことなのだ。(72)

それでは、超越論的な子としてではなく、経験的な我々がその道、まさに内なる道へと入り込むのは、どのようにしてなのだろうか。

ここで、超越論的という概念を再考する必要がある。そして、生という概念にも、再考の眼を向ける必要がある。超越論的とは、我々の経験を可能にする 条件について用いる形容詞である。そして、生とは、ほかならぬこの私が生きる生であり、私と生との間に時間的-空間的な隔たりは存在しないはずである。と するならば、先の「絶対的-永遠的浄福の自給自足体系」とは、我々の経験に先立ちつつも、常に我々の最も身近になければならないはずである。アンリは言 う。

神は――お好みならば、生は――私自身よりも私にとって内的intérieurであること、これは神秘的な言葉ではなく、現象学的な言葉なのだ。(73)

従って、少なくとも、子としての超越論的条件は、我々にとって「異質な」状態ではない。むしろ、経験的な我々のうちにおいて「既に成立しているは ず」の状態なのだ。確かに、それが超越論的誕生の事柄である以上、その誕生の瞬間を理解するには、経験的な我々は常に既に遅れすぎている。しかし、同時 に、その誕生から身を引き離すにもまた、経験的な我々は常に既に遅れすぎているのだ(74)。その意味で、我々は常に既にキリストとの関係に、そして、神 との関係に何某かの形で触れている、いや、触れられているのである。

しかし、それでもまだ、超越論的次元と経験的次元の差が埋められたわけではない。ここで注目すべきは、ヨハネ福音書の以下の節である。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが私の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。(14:20)

この節においてこそ、アンリ的に言えば、超越論的次元と経験的次元の差が埋められた箇所である。それはどのようにしてか。まさに「かの日」においてなのだ。では、かの日が我々に到来する条件とは何か。それは、「信じること」である。

私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。(14:11)
相互内在性に我々が達するのは、信じることにおいてのみである。(75)

しかし、信じるという語は、あまりにもやすやすと我々を罠へと誘い込んでしまいかねない。何故なら、先に述べた「かの日」という語が典型的だが、信 じることが将来への期待・待望と同一視されかねないからである。アンリの考えでは、信じるとは、「まだ見たことはないが、将来世において見ることができる であろうもの」への待望とは全く別物である(76)。何故か。第一に、「世において」啓示が起こるわけではない。啓示は生の中で起こるのだ。第二に、「将 来」啓示が起こるわけではない。啓示は既に起こっているはずのだ。何故なら、啓示は、私の超越論的誕生なのだから。私には、いつまでも私の誕生する音が聞 こえるはずなのだ(77)。「啓示が将来世に到来する」という誤った啓示理解を批判したのが、14章19節の真意だとアンリは理解する(78)。

しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。何故なら、私が生きており、あなたがたも生きているからだ。(14:19)(79)

約言すれば、信じるべき内容とは、ほかならぬ、経験的な我々に子としての超越論的条件が備わっていること、そのものなのである。

では、最後にこう問おう。如何にすれば信じるに至るか?残念ながら、この問いに対する明確な回答は、今回検討したテクスト群の中には存在しない。ただ、以下のアンリの言葉は、その問いにぎりぎりまで接近した言葉と見なせるだろう。

……この子としての条件はまさに自分のものであり、同様に、信仰の条件は常に成立している。唯一、神のみが我々に神を信じさせることができるのだが、彼は我々自身の肉に住まっているのだ。(80)

ただし、付言すれば、アンリは96年の『我は真理なり』において、この問題を「第2の誕生」と呼び、一層深く探求しているようである。その解明は今 後の課題とせざるを得ないが、少なくとも、アンリの宗教思想がさらなる展開の可能性を秘めていることだけは、間違いないだろう。

Adieu à Henry

以上が、アンリのヨハネ解釈および彼独自の宗教思想の基本構造である。無論、本発表に基づいて、今後、アンリが最晩年に残した2著作『我は真理なり』と『受肉』が分析されねばなるまい。

我々は、世界に現われる現象に目を奪われ、心を奪われつづけている。しかしアンリは、我々の内において起こっている神秘に、我々の内において蠢いて いる神的なものに眼を向けるよう主張した。いや、そこに心を開くよう、否、それを信じるよう主張した。その信じることが、まさに生への道であり、かつ、生 そのものが道でもあるということにほかならない。アンリが自らの哲学を投入してヨハネ福音書から読み解いたのは、終末でもなければ知恵でもなく、復活でも なければ裁きでもなく、教会でもなければ契約でもない。あまつさえ、世に対する栄光の啓示でさえない。アンリがヨハネ神学に垣間見たもの、それは、我々の 内において永遠に自己触発し続ける、まさにその神的なる生の躍動である。いや、垣間見たのではない。文字通り、生によって触発され、感じたのである。

そして彼は、その生の栄光を、そう、子としての我々が預かっている栄光を、彼なりの筆致によって再構築しようと試みたのである。その結果編み出され た体系が「原-啓示=自己触発=生=神=独り子=御言」という、かの定式に他ならない。言うまでもなく、この定式の一切を支えている結節点とは、まさし く、生という一点である。ここにこそアンリ哲学の、そして、彼のヨハネ解釈の全てが織り込まれているのだ。それを理解した上で、こう言おう。アンリにとっ て、ヨハネ神学とは生の神学である、と。

80年の生を閉じたアンリ。彼は、自らの生がついえる最期の瞬間、如何なる生の鼓動を感じたのだろうか。

註と文献 (アンリ論(2))

notes

  1. 私の研究における本発表の位置付けであるが、基本的には「宗教思想家としてのアンリ」研究の序論に当たる。それと同時に、アンリの思想はその 本質において、ことごとくリクールとコントラストをなしている点で、よい比較対象となる。なお、アンリとリクールの比較は、既にグレーシュによる試みがあ る。Greisch 1989
  2. Henry 1994; p. 53
  3. Tilliette 2001b; p. 171, pp. 178-180
  4. Janicaud 1991; p.57
  5. ただし、ジャニコーによれば、それでもアンリはレヴィナス、マリオンと並んでフランス現象学の神学的転回の主犯である。何故なら、 彼らは共通して「現われざるものl'inapparentの現象学」を目指し、その結果、「厳密な学としての現象学」を踏み越えてしまったからだ、とジャ ニコーは言う。Janicaurd 1991; p.17ff.
  6. Henry 1990; p.112ff.。また、この論文に対する批判として、Janicaud 1991; p.64ff.
  7. Heidegger 1927; p.27ff.
  8. ハイデッガーを擁護しアンリの粗雑さを批判せんとするジャニコーの指摘する通り、確かにアンリは、『存在と時間』第7節が「現象学の予備概念Vorbegriff」であることなどお構いなしに、ハイデッガーを批判する(Janicaud 1991; p.68)。
  9. ibid.; p.28
  10. ibid.
  11. Henry 1990; p.114
  12. 「現われるものは、現われることの働きのおかげでのみ、その働きの中でのみ、その働きによってのみ、現われる。この意味で、照らされるものがそれを照らす光とは異なるのと同様の仕方で、現われるものは、現われることとは異なるのである」(ibid.)。
  13. Heidegger 1927; p.32
  14. ibid.
  15. ibid.; p.34
  16. Henry 1990; p.117ff., Henry 1992; pp.132-134
  17. Heidegger 1927; p.35
  18. ibid.; p. 35。ここで形容詞「形式的formel」を強調する理由は、こうした叙述に続いて、ハイデッガーは「具体的な」現象学の定義として、「それでは、現象学 が『見させる』ものは何か――それは存在者の存在である」という論法で、現象学を存在論的問題へと転化させるからである。しかし、アンリにとって重要なの は、その転化の手前で起こっている形式的な現象学の定義の側である。
  19. Henry 1990; pp. 120-121
  20. アンリは、それ故ハイデッガーのいう現象学とは、結局のところ最もありふれた経験それ自体に帰着するとまで言う。「[現象学の]方 法を定義し構成するのは、それ自身において自らを示すような存在者の呈示であり、その結果、現象学から考え付く限り全ての有用性が奪われてしまう。『現象 学』とは、最も日常的な経験以外の何者も意味しなくなってしまう」(ibid.; p.120)。ただし、最も日常的な経験が即、「それ自身において自らを示すような存在者の呈示」であるとは限らないので、アンリのこの言明は大変分かり やすいのだが、それに比例していささか勇み足であろう。
  21. ibid.; pp.108-111, p.121ff.
  22. ibid.; p.122
  23. Henry 1994; p.52
  24. ibid.; pp.51-52
  25. Henry 1990; p.119
  26. Henry 1994.; p.51
  27. Henry 1990; pp.126-127
  28. Henry 1994; p.51
  29. Henry 1990; p.129, Henry 1992; p.136
  30. 故に、アンリの原-啓示は、アルトハウスが用いた概念Uroffenbarungとは全く別物である。
  31. Henry 1992; p.136ff., Henry 1994; p.53ff.
  32. Henry 1994; p.53
  33. 「見られるものが生から借りられてきたのみならず、見ること自体が生の一様態に過ぎないのである。生の自己触発なくしては、何者も見られないのだ」(Henry 1990; p.129)。
  34. ibid.; p.111
  35. 事実、リクールがアンリに噛み付いたのはこの点である。リクールは、アンスコムの行為論などを手がかりとして「生や実践 praxisそのものもまた、表象された現象(例えば象徴やテクスト世界)によって構成されているではないか、故に、生は根源的には生自身に内在していな い」と批判している(Ricoeur 1978; pp.288-293)。
  36. 「私は自分の生を私に表象することができるし、この原理的可能性は生のうちに内包されている。しかし、そうした可能性は、まさに可 能であることでなければならない。逆説的なことだが、その可能性は表象の内ではなく、表象を究極的に基礎付けているものの内、即ち、そこで一切の体験が 「自己を遂行するs'accomplir」生の原-啓示の内にあるのだ」(Henry 1990; p.129)。
  37. 「生がなす触発の内容が生自体であって、それ以外の何者でもないという仕方で、生は触発するのである」(Henry 1992; p.136)。
  38. Henry 1990; p.134
  39. ただし、定式化自体はアンリではなく私がまとめた表現方法である。
  40. 以下のアンリのヨハネ福音書解釈は、Henry 1994: p.52ff.で展開されている。
  41. ibid.; p.52
  42. ibid.; p.53
  43. 「プロローグによれば、生は神である。生と全く同様、神は自己啓示する」(ibid.; p.53)。
  44. 例えば、Henry 1990; p.132ff.など。また、アンリはエックハルトが神を生と呼んでいることも、典拠としている。Henry 1992; p.137
  45. Henry 1992; pp.131-133
  46. Henry 1990; pp.130-132
  47. Henry 1992; p.136
  48. Henry 1990; p.130
  49. Henry 1992; p.151ff.
  50. Henry 1990; p.132
  51. Henry 1992; pp.138-139
  52. ibid.; p.143ff.
  53. Henry 1994; p.53
  54. Henry 1992; p. 136ff.
  55. ibid.; pp.137-138, p.149ff.
  56. Henry 1994; pp.54-55
  57. Henry 1992; pp.158-159
  58. 1と2のクラスが区分されたことは、アンリの思想的発展の中では非常に大きな意味を持つ。何故なら、それによって「自己触発」の概念もまた二重化されることになったからである。詳しくは、Henry 1992; p.138ff.
  59. その意味でのみ、以下のアンリの言葉も理解される。「キリストは、アブラハムやダビデに先立って生まれたのみならず、世界の創造にも先立って生まれたのである」(Henry 1994; p.56)。キリストという子(=我々の超越論的条件)が世界の創造に先立つ理由は、世界という「外部」は、生の内部で起こる「生の自己触発」によってのみ、現象することが可能になるからである。
  60. ibid.; pp.53-54
  61. ibid.; p.55
  62. ibid.; pp.55-56
  63. ibid.; p.55
  64. Henry 1992; p.143
  65. ibid.
  66. ibid.; p.149
  67. ibid.; p.159
  68. ただし、ティリエットが批判する通り、アンリには「三一論」自体は欠如している。特に、聖霊に関しては何ら分析をおこなっていない(しかし、論者なりにアンリを擁護すれば、それは、何らアンリの議論の「欠点」とは呼べまい)。Tilliette 2001b; pp.176-177
  69. Henry 1992; p.55
  70. Henry 1994; p.56
  71. ibid.
  72. Henry 1990; p.132
  73. Henry 1992; p.150
  74. ibid.; p.154
  75. Henry 1994; p.56
  76. ibid.
  77. Henry 1992; p.154
  78. Henry 1994; p.56
  79. この箇所は新共同訳ではなく、アンリが引用している仏訳から翻訳した(両者では、理由を示す節のかけかたが異なる)。なお、アンリ は仏語訳として最も普及しているエルサレム聖書を用いているかと思いきや、エルサレム聖書のこの箇所はアンリの引用とはかなり異なるので、アンリがどの訳 に拠っているのか(或いはアンリ自身の訳なのか)、よく分からない。
  80. Henry 1992; p.160

Bibliography

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  • Heidegger, Martin 1927; Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, 1993(17 Aufl.)
  • Henry, Michel 1990; "La méthode phénoménologique" Phénoménologie materielle, PUF, 1990
  • ―― 1992; "Parole et religion: La Parole de Dieu" Phénoménologie et théologie (Jean-Louis Chretien, Michel Henry, Jean-Luc Marion et Paul Ricoeur), Criterion, 1992
  • ―― 1994; "Qu'est-ce qu'une révélation" Archivio di filosofia 62 (Filosofia della rivelazione), 1994
  • ―― 1996; C'est moi la Vérité: Pour une philosophie du christianisme, Seuil, 1996
  • Janicaud, Dominique 1991; Le tournant théologique de la phénoménologie française, L'eclat, 1991
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  • Tilliette, Xavier 2001a; Les philosophes lisent la bible, Cerf, 2001
  • ―― 2001b; "La christologie philosophique de Michel Henry" Michel Henry: L'epreuve de la vie (Sous la dir. d'Alain David et Jean Greisch), Cerf, 2001