フッサール『論理学研究』読解(002)

 

メタバシスについて
 なお前回の第二節で語られた「メタバシス」の概念について少し振り返っておきたい。この概念は、アリストテレスの『天体論』において使われた言葉である。アリストテレスは物体について考察する際には、物体の一次元的な線について考察するレベルと、二次元的な面について考察するレベルと、三次元的な「物体」について考察するレベルを混同してはならないと戒めて、「線から面へ、面から物体へといった具合に、他の類に移る(メタバシス)ことはできない」[1]と指摘したのである。議論する枠組みとしての土台(バシス)を超える(メタ)ことを禁じた言葉であり、フッサールは学問的な領域の区別を無視することを警告するために、この言葉を好んで使う。

 『現象学の理念』でもフッサールは心理学の次元と論理学の次元の混同を、この「メタバシス」の語で戒めている。訳者の立松弘孝によるとこの語は、ナトルプの『認識の主観的および客観的な概念』で次のように指摘されていることに依拠したものだという。「基礎づけられるものと基礎づけるものとは同じ類(ゲーヌス)に含まれているべきであり、したがって数学や論理学など一切の客観的科学は、元来は心理学的・主観的基礎づけを必要としない。それゆえかりに主観的な基礎づけが客観的基礎づけの機能を代行しようとすれば、それはメタバシスとなろう」[2]。

[1]アリストテレス『天体論』第一巻第一章。邦訳は『アリストテレス全集』第四巻、岩波書店、4ページ。
[2]フッサール現象学の理念』訳注。邦訳は立松弘孝訳、みすず書房、154ページ。

■第一章 規範学としての、特に実用学としての論理学
■第四節 個別科学の理論的不完全性
自然科学の学問としての欠陥
 フッサールはここで芸術家が自分の作品に「合理的な明晰な」説明をすることができないのは不思議ではないが、「合理性と明晰性」(30)を誇るはずの数学でも、「方法の論理的な妥当性と、その方法的な限界」については「まったくの無能」を発揮するのは不思議なことだ指摘する。自然科学は、人間に「自然の支配」(同)を可能にしたものであるものの、この学においても、「あらゆる概念と命題の帰納が完全に理解され、あらゆる全体が綿密に分析され、その全体においていかなる疑念もないような透徹した理論」(同)とはなっていないのである。


■第五節 形而上学と学問論とによる個別科学の理論的補足
学問論の課題
 このような理論を実現するには、科学の「基礎にある形而上学的な前提」(30)を解明する必要がある。これは「これまで検討されたこともなく、多くは気付かれてさえいなかったが、それにもかかわらず非常に重要な前提を確定し、検討する」(30-31)という課題なのである。たとえば物理学における時間や空間の概念であり、空間が三次元であり、時間は一次元であるという前提などが、こうした「基礎にある形而上学的な前提」の一例である。

 これらはカントも『純粋理性批判』で検討した課題であるが、フッサールの目指すところは、自然科学のうちに暗黙的に含まれている形而上学的な前提と思い込みを明らかにすることである。この手続きは後に還元という方法で明確にされることになる。ここではフッサールは方法としてはではなく、一つの学として「学の学」、学問論、フィヒテの知識学と同じ言葉で、この新しい学を定義する(31)。

■第六節 学問論としての論理学の可能性と資格
論理学の役割
 しかし学問論は知識学ではない。というのは、学問は知識とは異なるからだ。学問はさまざまな知識に依拠するが、知識の全体が学問ではない。むしろ学問は「知識作用を作り出すための詳細な予備条件を、知識のリアルな可能性を提供する」(32)ものなのである。その意味で「学問は知識を目標とする」(同)ものである。

知識の可能性
 この知識は、真理を含むものである。知識とは、わたしたちが顕在的に(アクトゥエル)にもつことのできるものであり、この顕在的なありかたに立ち戻ることで、その知識の正しさを確認することができる。この知識の正しさは、「判断の客観としての真理」(32)と呼ばれるものである。

 それでは知識のリアルな可能性とは何か。それは「正常な」個人、「それにふさわしい個人が」、「正常な状態」のもとで到達することが可能な意欲の目標とされる可能性である。普通の人間が努力すれば幾何学を習得することができるための予備条件を作り出すものなのだ。

 フッサールは、「個々の化学的な認識の集まりには、化学と呼ばれる資格はない」(34)と指摘する。化学が成立するためには、すなわち化学的な個別の知識が一つの学としての化学になるには、「理論的な意味での体系的連関」が必要なのであり、それには知識の「基礎づけ」と、複数の基礎づけが継起する際の「適切な結合と秩序」が必要である。だから学問の本質には「基礎づけ関連の統一」が含まれることになる。「学問の目的は、たん知識を伝達することではなく、われわれの最高の理論的な目標にできるだけ完全に一致した規模と形式で知識を伝達することなのである」(同)。

真理と確実性
 前に指摘された「正常な個人」と「正常な状態」という概念は、実は面倒な問題を引き起こすが、今はそれにはこだわらないことにする。ここではフッサールは真理と知識の「アクチュアル性」という問題を考察しているところに注目しよう。フッサールはここで真理の概念を二つの側面で考える。一つは真理とは「判断の客観」であるということである。これはフレーゲ的な概念では「思想」ということと同じことである。それは命題で表現されるものであり、それが客観的に正しいと判断されるものである。

 しかし同時にフッサールは、真理の伝統的な概念である「物と概念の一致」という考え方に依拠する。これはアリストテレスの命題の真理の概念であり、対象について語る命題が対象の事態と一致しているときに、それを真と呼ぶのである。ソクラテスが歩いているならば、「ソクラテスは寝ている」という命題は偽であり、真であるのは「ソクラテスは歩いている」という命題である。この命題は事態を正しく表現しているからだ。

 この真理概念に依拠するかぎり、真理はたんなる「思想」や命題の抽象的で一般的な正しさではなく、それが現実に事態としてアクテュアルに成立していることを確認する必要がある。その思想が真理として確証されるためには、「ある事態の措定ないし否定」(32)という命題が、「その事態の存在ないし非存在についての知識」(同)によって裏づけられることが必要だということである。

 その裏付けを提供するのが「明証性」、すなわち「明らかな確実性」(32)である。真理はこの確実性を必要とするのであり、この確実性にはさまざまな段階がある。その「正当性の最も完全な標識は明証であり、われわれにはそれが真理そのものの直接的な覚知(unmittelbare Inneweden)である」(32)。目の前でソクラテスが歩いていることを直接的に覚知したとき、その知識と真理の確実さは、明証性という「最も完全な」段階にあるのである。

現前性の哲学
 ここで学問論が真理論と結びつき、それが存在の確証を通じて明証にいたる経路は、フッサールが伝統的な真理論に依拠していること、そして「ありありとした明証」と現前の特権性を認めていることに注目しよう。フッサールはここでは現前性の哲学者なのである。そしてこの現前の明証性への依拠は、ウィーン学団プロトコル命題との強い親縁関係がうかがわれる。フレーゲを通じて、同じ思考がこの時期のドイツを支配していると言えるだろう。