公共性と公開性--連帯の哲学(004)

■公共性と公開性
 「市民的な公共性は、一般公開の原則と生死をともにする。一定の集団をもともと排除した公共性は、不完全な公共性であるだけでなく、そもそも公共性ではない」(ハーバーマス『公共性の構造転換』旧版、p.116)。

 ただしこの「一定の集団」が何であるかは別の問題でありうる。「市民的な」という「市民」は誰かということが問題になるのだ。議会の討論が公開されるべき相手は誰なのか。有権者なのか、それとも一般公衆なのか。

 選挙権が誰に与えられるかという問題は、この市民とは誰かという問題を凝縮して示す。最初はこれは「一八世紀の市民的な読書公衆」(同)だった。この公衆は「文人的なもの」であり、「教養がひとつの入場基準であり、財産がもうひとつの入場基準である。事実上はこの二つは大幅に同一の人員範囲に適用される」(同)のである。ある程度の有産階級の人間だけが「市民」でありうるのだ。

 だから「政治的に機能する公共性への参加を判別する国勢調査は、納税調査とも一致しうる。すでにフランス革命もこれを有権市民と無権市民との区別の尺度にしている」(同)。

 この制限が、現実の事態を法律的に追認したものとされる場合には、必ずしも公共性の制限とはみなされない。「万人が参加基準を満たし、すなわち教養と財産のある人物たるための私的自律の資格を取得する平等な機会を万人に許容するような経済的社会的条件がととのったときに、初めて公共性が保証されるのである。これらの条件を、同時代の政治経済学が明らかにした。ジェレミ・ベンタムは、アダム・スミスなしに考えれないのである」(p.117)。