佐藤英明「フ ッサールの心理主義批判」(1)

 佐藤英明「フ ッサールの心理主義批判」を読む。

http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/06/17/017-01.pdf

 

 ■この論文の意図

  1. 序 論

現象学分析哲学は、 20世紀の哲学の二つの大きな潮流を形成してきたが、 両者の起源はいずれも19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの思想状況のうちに求めることができる。現在では、現象学分析哲学は異なった問題設定をおこない、 まったく異質な方法論に基づいているように見える。しかし、両者はその起源においては極めて密接な関係にある。フレーゲ、 ラッセル、 フッサールなどに代表される当時の哲学者の理論において一 つの重要なテーマとなっていたのは、 心的作用とその対象との関係をどのように捉えるかということであった。そして、 この問題に対するアプローチの違いが、その後、二つの潮流を分かっこととなった。

19世紀後半の心理学の興隆は、 哲学の世界に「心理主義」 という見方をもたらした。論理的な判断や推論は、判断したり推論したりする心的な作用を心理学的に分析することによって解明されるものであり、 それゆえ、 論理学は論理的概念の解明を心理学に依存するという考え方である。 こうした考え方を真っ向から否定したフレーゲは、 心的な作用から独立した論理的概念の独自の存在を主張し、「論理主義」の見方を確立した。その後、この立場は分析哲学に受け継がれるが、20世紀後半になると、 クワインの「自然化された認識論」 によって、 分析哲学のうちに新たな心理主義が登場することになる。

他方、 現象学の創始者であるフッサールは、 当初はブレンターノ流の心理学を継承し心理主義の立場をとっていたが、 その後、 一転して心理主義を批判することになる。しかし、この批判はフレーゲ的な「論理主義」への転向を意味するものではなく、独自の「現象学」の創始につながるものであった。

学間の系譜という観点から見れば、 心理学は19世紀に哲学から分かれ、独立した学問として成立したといえる。だが、哲学の側から見ると、独立していったはずの心理学に対してどのような見方をとるかが、 哲学としての根本的な立場を左右することになったのである。本稿では、 心理主義から転じたフッサール心理主義批判を通じて現象学を形成していった過程を辿ることで、 20世紀の哲学に大きな影響を与えた 「心理学に対する哲学の態度」を考察する。

 

■心理学の確立

  1. 『算術の哲学』 における心理主義的論考の背景

アメリカの心理学者ボーリングによれば、 「心理学 (psychology)」 という語がはじめて用いられたのは、 16世紀初め頃のことであるという。 しかし、19世紀までは心の働きに関する研究は哲学者の手に委ねられてきた。 精神は、 認識論の研究領域と考えられてきたからである。

17、 18世紀にイギリス経験論によって主張されてきた 「観念連合の法則」は、19世紀になるとJ・S・ミルらによって継承され、連合主義心理学の流れを形成していった。 また、 この頃には神経生理学や感覚生理学が急速に発展し、 生理学的な知見に基づいて精神作用を説明しようとする動きも現れてきた。 ドイツの生理学者ウエーバーの研究を発展させた物理学者フェヒナー は、 物理的世界の刺激と心理的世界の感覚とを理論的に関係づけ 「感覚量は刺激量の対数に比例する」 という法則を定式化するなどして、 精神物理学という新たな学問を創設しようとした。ベルリン大学の生理学者ミュラーのもとで学んだへルムホルツやへリングも視覚や聴覚に関する実験的研究をおこなっている。

19世紀後半になると、従来のような哲学的思弁から離れ、 自然科学的な方法によって心の働きを説明する 「心理学」が、大学のなかに位置づけられるようになってくる。ライプチヒ大学教授であったヴントは、1879年に実験心理学のための世界初の心理学研究室を大学の哲学部に開設し、 心理学だけで博士号が取得できるようにした。 これによって、 心理学はアカデミズムの制度のなかに確固たる地位を得ることになる。

 

■数学者としてのフッサール

 しかし、 ヴン トの心理学は当時の主流とはなったが、 科学的な心理学の方法に関しては他にも多くの考え方があり、 さまざまな心理学の学説が登場した。ヴントは、その主著『生理学的心理学細要』を1874年に出版しているが、同じ年にブレンターノは『経験的立場からの心理学』においてヴント心理学に対する反論を試みている。 だが、 ブレンターノがめざしていたのも、ヴントと同様に心理学を真に科学的な学問とすることであった。 ブレンタ一ノが重視したのは、 当時互いに優劣を競い合っていたさまざまな心理学研究を一つの心理学に統合することであり、そのためには、 ヴントのような具体的心理学研究以前に、 科学的心理学の学問としての基礎づけが重要であると考えたのである。

1859年生まれのフッサールが心理学と出会ったのは、 このような時代であった。 しかし、 心理学的な研究に取り組むまでは関心は数学へと向けられていた。 フッサールは、1876年10月にライプチヒ大学に入学し、 そこで3 学期間(1年半)おもに天文学を学んでいる。このとき、すでに『生理学的心理学綱要』 を出版していたヴントの哲学の講義を聴講しているが、 十代のフッサールはこの講義からはほとんど影響を受けなかったようである。 78年4 月にはベルリン大学に転校し、そこで3年間、ヴァイヤーシュトラウスクロネッカーのもとで数学を学んだ。81年3月にはウィーン大学に移り、 ケーニヒスベルガーのもとで学位論文変分法論考』 を執筆、 83年1月に博士号を取得した。その後、ヴァイヤーシュトラウスに招かれ、ベルリンに戻り助手となるが、 間もなくヴァイヤーシュトラウスが病で倒れたため、 夏学期かぎりで職を辞し、10月から1年間、志願兵として軍役に服した。このように、 フッサールは20代半ばまでは数学者としての道を歩んでいた。

 ■ブレンターノとの出会い

フッサールが哲学研究に転じたのは、 大学教授資格取得論文執筆のため、84年に再びウィーンに戻つてからである。 そこでのブレンターノとの出会いが、 フッサールに哲学専攻の決意をもたらしたのである。

ブレンターノは、ヴュルツブルクカトリックの司祭であったが、1866 年に 『アリストテレスの心理学』 によって大学教授資格を取得しヴュルツブルク大学の私講師もつとめ、 72年には助教授に採用された。 しかし、 ヴァチカン会議で採用された 「法王不可謬の教義」 に反対する抗議文を起草し、73年には司祭職を離れ、 その結果、 ヴュルツブルク大学の教授職も失うことになった。翌74年には、ウィーン大学の正教授に任ぜられたが、80年の結婚に際し当時のオーストリアの婚姻法によって聖職者であった者の婚姻が認められないとされたため、オーストリア市民権を放棄し、正教授を辞任。 その後は、 私講師の資格で講義をおこなっていた。

フッサールがブレンターノのもとで学んだのは、 1884年から86年までの2 年間で、 ブレンターノはすでに正教授の職を失っていた。 しかし、 フッサー ルはこの短期間に聴講した少数の講義から大きな感銘を受けたのである。

ブレンターノは心理学を「心の学」ではなく「心的現象の学」であるとした。心理学の研究対象は、物的現象とは区別される心的現象であり、心理学は心的現象を与えられるとおりに記述すべきであるとされた。むろん、生理学などの知見をもとに心的現象の発生のメカニズムを因果的に解明することも可能である。だが、こうした「発生的心理学」に対し、ブレンターノは、心的現象の構造に関する基本的認識の獲得をめざす 「記述心理学」 を提唱したのである。発生的心理学のように心的現象の因果的研究をおこなうためには、 それによって説明される現象があらかじめ明B析に記述されていなければならないというのがブレンターノの考えであった。

例えば、 生理学において身体の諸器官の働きに関する因果的研究をおこなうためには、 それらの器官に関する精密な解剖学的記述が不可欠である。 心理現象の研究に関しても同様の関係が成立し、 記述心理学は発生的心理学の基礎となると考えられたのである。 この「記述心理学」の立場はフッサールに大きな影響を与えることになる。

ブレンターノは、 物的現象とは異なる心的現象の固有の特徴を 「対象の志向的内在」 に見いだした。 中世のスコラ哲学者が用いていたこの概念は、 心的現象が何らかの客観をそれ自身のうちに含むことを示している。のちに、この 「志向性」 という概念を基盤として認識論的探究をおこなったフッサールは、 自らの現象学が可能になったのは、 ブレンターノがおこなった 「志向性というスコラ的概念を心理学の記述的基本概念に変貌させるという一大発(1)見」 によってであったと述べている。

 

■ハレ大学時代

ウィーーン大学のブレンターノの影響によって数学から哲学への方向転換を決意したフッサールは、 教授資格論文を完成させるため、 ブレンターノの推薦を受け、ハレ大学のシュトゥンプのもとに赴いた。1886年のことである。 シュトゥンプは、ヴュルツブルク大学の私講師となったブレンターノが最初に指導した学生の一人で、 ブレンターノの強い影響を受け、 音響心理学などの分野で実験的方法も用いた研究をおこなっていた。 73年に辞任したブレンターノの後任としてヴュルツプルク大学教授となったが、 84年からはハレ大学の教授となっていた。フッサールはシュトゥンプの心理学講義などから多くの心理学の知識を学び、 87年には教授資格論文 「数の概念について一心理学的分析」をハレ大学に提出、シュトゥンプや数学者ガントールらによる審査を受け、 ハレ大学私講師となった。

数学者であったフッサールは、教授資格論文「数の概念について」においてブレンターノ流の心理学の方法を数学の領域にあてはめ、 算術学に対する心理学的基礎づけを試みている。 これは、 算術における最も基本的な概念である基数概念の成立を心理学的に分析し、 この概念を基礎づけようとしたものである。1891年には、この論文の成果を基礎とし、その構想をさらに発展させた書物が公刊される。 処女作 『算術の哲学一心理学的,論理学的研究』 第1巻である。 ブレンターノに捧げられたこの書物は、 数の概念を心的作用の産物と見なす心理主義的確信に基づいている。

 

■算術の哲学的解明を断念した理由

しかし、 1892年に出版が予定されていた第2巻は公刊されることなく、 心理主義に基づく算術の哲学的解明は断念されることになる。 『論理学研究』第I巻(以下『論研I』と略記)の序言で、フッサールは、それまでの解明を放棄させた理由の一つは「数学の理論と方法の困難な諸問題」であるとしている。 「形式的統一と記号的方法論とを備えた演構,科学の合理的本質」 は容易に洞察されるもののように思われていたが、 演繹的諸科学の研究がすすむにつれて、その解明の困難さが明らかになってきたというのである。そして、もう一つの理由が、心理主義に対する疑念である。『算術の哲学』第1 巻の出版の頃、 フッサールは「論理学一般と同様、演繹的諸科学の論理学も心理学にその哲学的解明を期待しなければならないと、する当時の支配的確信から出発していた」。 しかし 「思考作用の心理学的な諸関連から思考内容の論理的統一性に移つたとたん、 正当な連続性や明B析性はもはや見いだすこと(3) ができなくなった」という。心理主義的解明に対するこうした「原理的な疑惑」によって確信は揺らぎ、 フッサールは論理学の本質についての批判的反省へと向かうことになった。