ホッブズの「意見」概念のもつ逆説--連帯の哲学(005)

ホッブズの「意見」概念のもつ逆説
 ホッブズは、意識と良心をともに意味しうるコンシャンスを意見オピニオンと同意のものとみなした。これが後に大きな影響を行使した。ホッブズの国家は、君主の権威だけに基づき、臣民の確信や信条には拘束されない。「臣民は国家機構として客体化された公共性からは締め出されているゆえに、彼らの主義主張の争いは、裁決不可能であり、それどころか政治の領域からまったく追放されている」(ハーバーマス『公共性の構造転換』旧版、p.129)。市民の見解の違いは政治的な意味をもたない。

 ホッブズが彼の国家によって解決しようとした宗教的な内乱は、宗教的に中立な政府当局のもとで終結するはずである。「宗教は私事であり、私的信念である。それは国家にとっては重要ではない。国家にとって、どの宗派も他の宗派なみの価値しかない。こうして宗教的良心はたんなる意見となる」(p.129-130)。

 そしてホッブズは信仰や判断や推量などのすべての作用を、「意見」の圏内に引き入れて水平化する。市民の良心は宗教的なものを含めてたんなる「意見」となる。ここで奇妙な逆説が発生する。「宗教と財産を私有化し、市民的私人を教会や身分国家的中間権力などの半公共的拘束から追放することによって、彼らの私的意見がかえって勢力をえるようにした」(p.130)ことになる。「ホッブズ宗教的信念の価値を格下げにしたことは、実は私的信念一般の格上げに通じるものだった」(同)。