フッサール『論理学研究』読解(010)

 

■第二七節 論理学の原理に関するその他の心理学的諸解釈に対する類似の抗議。錯誤の源泉としての多義性
□心理学的な解釈への批判
 またフッサールは別の解釈として、心理学主義では、矛盾律を感情的な抵抗から説明しようとすることを指摘する。矛盾したことを主張すると、心の中に抵抗する動きがあり、そんなことは不可能なことだと感じるというのである。「矛盾しあうものが共存するとは、わたしには信じられない」(p.111/90)というのがその論拠である。

Dieses Nichtglaubenkönnen, so möchte man argumentiren, ist ein evidentes Erleb- nis, ich sehe also ein, daß der Glaube an Widersprechendes für mich, also auch fürjedes Wesen, das ich mir analog denken muß, eine Unmöglichkeit ist; ich habe damit eine evidente Einsicht in 'eine psychologische Gesetzlichkeit, die eben im Satze vom Widerspruch ausgedrückt ist.

 しかしこのような体験がいかに明証的な体験であるとしても、「感情的抵抗などのような無益な試みは、個人や時間に限定され、到底精密には規定できぬさまざまな状況に拘束された個々の体験である」(同)。このようなもので、一般的な法則を基礎づけるのは不可能なのである。

■第二八節 矛盾の原理は思考の自然法則と解されると同時に、思考を論理的に機整する規範法則とも解されるとする矛盾の原理のいわゆる二面性
□矛盾の二重の位置付けの試み
 次にフッサールは、ランゲによる別の試みを批判する。これは「矛盾律に二重の位置付けを与える試み」(p.113/93)である。「その位置付けによれば、矛盾律は一方では、自然法則としてわれわれの事実的判断を規定する力を形成し、他方では規範法則としてあらゆる論理学的諸規則の土台を形成する」(同)というのである。

 フッサールはこの新しい方式は、カントの形式的な観念論や「その他これに類する、生得的な認識能力または認識源泉についての諸種の学説も含まれる」(p.114/93)と指摘する。フッサールはカントには「認識源泉としての心的能力のこのような心理学主義を乗り越えようと努力し、事実それを乗り越えている側面もある」(同)ことを認めながら、心理学主義に陥る側面があることを指摘する。「超越論的な心理学はまさに心理学でもある」(同)のである。

 これにたいしてフッサールは、ここで「自然法則」と呼ばれているものが「諸事実のはなはだ粗雑な表現」(p.117/96)にすぎず、学問的に厳密な態度がかけていることを批判する。心理学で確認されるように「あの曖昧な経験的一般性を、論理学のうちにのみ位置を占める絶対に精密で純粋に概念的な法則と混同することに対しては、断固たる異議を唱える」(p.117-118/97)。この「両者を同一視したり、一方から他方を導出したり、あるいは両者を融合していわゆる二面的な矛盾の法則を挙行したりするのは、まさに背離である」(p.118/97)のである。

 このフッサールの批判は当然に予想されるものだろう。矛盾律は論理的な法則であり、「何らかの意識とその判断作用とに関する経験的主張の影すら宿していない」(同)のである。

■第二九節 承前。ジクヴァルトの説
□ジクヴァルト説の批判
こうした「論理学的諸原則の二重性格を説く学説」(同)としては、すでにジクヴァルトの説があった。彼は矛盾律は「自然法則であって、たんに否定の異議を確立するにすぎないとされたのと同じ意味で、規範法則として現れる。しかし自然法則としてのそれは、AはBであり、しかもAはBではないと、ある一瞬間に意識的に言うことは不可能であると言っているにすぎない」(p.119/98)と、矛盾律を心理的な事実に依拠させる。しかしそれは同時に規範法則として、「意識一般の統一性がその全体に広がっている、恒常的な諸概念の全領域に適用される」(同)として、規範的な性格をそなえていることを主張するのである。

 フッサールは、否定を確立するはずの矛盾律が、「AはBであり、しかもAはBではないと、ある一瞬間に意識的に言うことは不可能である」という自然法則の内実を形成することはできないことを指摘する。概念に基づく命題は、「われわれがある瞬間に意識的に何をなしえ、そして何をなしえないか、ということについては何も言表することはできない」(p.120/99)のである。

es sei unmöglich mit Bewußtsein in irgend einem Moment zu sagen, A ist b und A ist nicht b. Sätze, die in Begrif en gründen (und auch nicht das, was in Begrif en gründet, auf Thatsachen bloßübertragen) können nichts darüber aussagen, was wir mit Bewußtsein in irgend einem Moment thun oder nicht thun können.