聖餐論を通じてみたルターとカルヴァンの政治思想--岩波『政治哲学』第一巻(2)

岩波『政治哲学』第一巻「主権と自由」の第二論文

■ルターとカルヴァン(田上雅徳)

 この章は、『初期カルヴァンの政治思想』(新教出版社)の著書のある田上の担当である。ルターとカルヴァンは一世代異なることもあって、政治的な課題の継承という観点から考察されることが多い。たとえばウォーリン『政治とヴィジョン』では、ルターは「政治における制度の問題を積極的に捉えることができなかった」(30)のをうけて、カルヴァンは「教会という宗教共同体における権力行使を無視することなく、結果として、〈プロテスタンティズムの政治教育〉を行った意義が強調される」(同)のである。

 この文章で田上は新たな視点として、宗教改革の重要なテーマであった聖餐のテーマで三人の宗教改革者を比較してみせる。カトリックは聖餐においてキリストが化体するという説を採用する。ミサの際に祭壇に置かれたパンとワインの形状や味などの偶有性は変化しないが、本質はキリストの肉になり血になると考えるのである。

 これにたいしてルターはキリストが自分の肉であり血であると語った以上は、聖餐の際にキリストは「現臨」しているのであり、「教会員は現実的にキリストの体と血とに参与する」(34)と主張するのである。ツヴィングリはこれにたいして体と血そのものではなく、それを「意味している」と解釈する。教会員たちは、「相互に兄弟愛を実践することで、[神の現臨が]確認される」(35)と主張したのである。ルターは身体性を重視し、ツヴィングリは精神主義的な解釈を提示した。この一見すると瑣末な問題をめぐって、激しい論争が展開されたのである。

 次の世代のカルヴァンは、復活するのは肉体をもった現実の人間であると主張する。このように身体性を重視するために、聖餐でもキリストの肉と血とに参与すると考えたのである。そしてツヴィングリの精神主義的な聖餐論を批判し、ルターに近い理論を唱えることになる。


 このようにして宗教改革の理念に近いかと思われた精神主義的なツヴィングリの理論は、宗教的な共同体の構築に成功せず、かえって身体性を重視するルターとカルヴァンの理論では「政治共同体と共存するがゆえにこれと対峙しうる宗教共同体の理念が維持されている」(43)のである。どちらの流れでも「世俗権力を媒介にした共同体形成の正当性と必然性とをそれぞれ神学の核から導き出しつつ、ルターとカルヴァンは共に、宗教的共同体に照らし合わせながら、ここでの問題に向き合っていた」(44)とされるのである。

 参考文献では少し場違いだが磯前順一『宗教概念あるいは宗教学の死』に注目。岡田の「キリスト教図像学三部作」の『マグダラのマリア』『処女懐胎』『 キリストの身体』も面白いか。


■参考文献
-赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文館、二〇〇五年
-石居正己『教会とはだれか-ルターにおける教会』リトン、二〇〇五年

岡田温司『キリストの身体』中公新書、二〇〇九年
佐々木毅『宗教と権力の政治』講談社学術文庫、二〇一二年
-田上雅徳『初期カルヴァンの政治思想』新教出版社、一九九五年
-渡辺伸『宗教改革と社会』京都大学出版会、二〇〇一年

-磯前順一『宗教概念あるいは宗教学の死』東京大学出版会、二〇一二年

宗教概念あるいは宗教学の死

宗教概念あるいは宗教学の死 / 磯前 順一【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア

目次

1 宗教研究の突破口(宗教を語りなおすために―宗教研究とポストコロニアル状況;宗教概念論を超えて―ポストモダニズムポストコロニアル批評・ポスト世俗主義;宗教概念あるいは宗教学の死―宗教概念論から「宗教の回帰」へ)
2 日本の宗教学と宗教史(“日本の宗教学”再考―学説史から学問史へ;多重化する“近代仏教”―固有名のもとに;“日本宗教史”の脱臼―研究史素描の試み)
3 宗教概念と神道、そして天皇制(近代日本と宗教―宗教・神道天皇制;逆説的近代としての神道―近代知の分割線;神道エクリチュールの世界―版本から活字本へ;いま、天皇制を問うこと)
補論 植民地朝鮮と宗教概念