政治的な貨幣政策--横山俊雄「中国に於ける紙幣の発展」(3)

 第三章の前半です。中国でいかに貨幣が政治的な目的で使われていたかが、興味深いところです。

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第三章   北宋に於ける交子の発展

北宋時代に交子は手形で始まり、 これが発展して信用兌換紙幣になった。 第一章で述べた如く唐時代すでに櫃坊あるいは寄子舗と称する金融機関があり、 高い信用を博していた。 北宋に入ると交子を扱う金融機関は交子舗または交子戸と称せられた。   (註11)

以下、 交子の発展する過程がどのようなステップで進行したかを説明するに当たり、 まず北宋が鉄銭を発行するに当たりとられた政策をまず説明したい。 ただし説明は本章で必要な範囲にと どめる。

 

(1 ) 北宋に於ける鉄銭の価値と、 その流通範囲

種々の鉄銭が造られたが、 その重さは銅銭と同 じであった。 すなわち鉄銭は代用通貨であり、 銅銭とともに流通し交換している状態では、 銅銭の信用により等しい値を保てたのである。   (註1 2)

しか し北宋の為政者は鉄銭の流通区域を四川地方に限った。   「宋史食貨誌下二」によると 「968年ごろ銅銭が四川へ流入することを禁じ、 976年ごろに鉄銭が四川から流出する事を禁じた。 またさらに租税や専売品の購入等に鉄銭10につき銅銭1を納めさせ」銅銭を回収した。 このため銅銭が欠乏し、   「交換倍率が鉄銭14に対し銅銭1」になったと記されている。   (註13)

この政策は経済的なものでなく、 政策的なものであった。 この政策につき日野開三郎氏の 「銅鉄銭問題の研究」 第三節 (銅鉄銭行使地域画定の原因) 、 によると次の二つであると考察されている。

第一にこの政策は四川で銅銭を回収し鉄銭のみ流通させ、 回収した銅銭をさらに重要な地帯にまわすことにあった。 銅銭行使地域を眺めてみると第1 は京師およびその付近でその地は政治的にもっとも重要であり、 第2は東南の諸路でこの地は財政経済的に重要であった。 第3 は江北東西両路で南は京師開封に連なり北は強敵 「契丹」 の領土に接し、 国土防衛に重要な地であった。

また四川の地は中原とかけ離れ、 この地理的環境は古くから独立運動がしばしば引き起こされた。 北宋は常に北から契丹、 北西から西夏により強大な圧力を受け国境に大軍を配置せざるを得なかった。 このため内部の防衛は不十分であったので、 もし四川の地で独立運動のようなものが起きたときは大事にいたる可能性があった。

北宋としては四川の地に経済的な圧力を加え、 生活ができる以上の富力が得られないように努めた。 そこで金銀銅等を中央に接収しこの地を鉄銭使用地域としたのである。

第二に北宋は建国以来つねに北の契丹と北部1 6州を争い契丹から圧力を受けていた。 その後西夏が勃興し二国と戦うことになり宋はいっそう不利となった。万一領土の割譲が必要な場合には江北に比べ、 四川の地は政治的にも経済的にも影響が少なく、 この地が北宋にとりもっとの打撃が少なかった。   (表2)

割譲の可能性のある地から予め銅銭等の貴重品を引き上げ、 これを重要な地である中原の地にまわし少しでも銭荒をやわらげようとした。 またこれとは別に銅銭が北の国境を越えて流出するのを防ぐために、 鉄銭区域を作り銭不足の最大原因である銅銭の流出を防止しようとした。   (註14)

なお鉄銭は、 陜西、 河東も国境に沿っているため鉄銭区域であったが、 銅銭との併用が許され四川ほど厳重ではなかった。

また鉄銭区域を定めたもう一つの原因に盗鋳問題があるが、 ここでは関係がないので省く。

すなわち北宋時代に鉄銭の使用を強制されたのは四川の人民であった。

 

 

(2) 鉄銭と交子の関係

第一章で述べた如く銅銭は価値の少ない貨幣であったので、 取引額が増加すると重くなり取引が困難となつた。 たとえば宋初銅鉄銭が等価であったころに、 絹1匹の時価は1200文で代価の貨幣の重さは1貫目であった。 もし絹を10匹を仕入れば必要な貨幣の重さは10貫目となり、簡単に持ち運びや支払うことは困難となる。 さらに大きな取引では大八車を何台も連ねて貨幣を運んだという文献もある。

そのうえ四川では銅貨を官が接収したので鉄銭は暴落しインフレーショ ンが発生し、不確実な文献しかないが物価は約10倍となったと考えられる。たとえ10倍にならないとしても絹1匹の代価として払う鉄銭の重量はインフレ前の1 0匹分にちかずき小取引でも極めて不便となった。   (註1 5)

この状態でこの地に唐いらい信用をだんだん高めてきた金融機関があり、 既に手形は唐以来長いあいだ重い大量の貨幣の代わり と して大量の商取引きに使用され、 この手形は貨幣のように次々と通用してきた。 当然不便な鉄銭に代わり大小となく取引きに対し手形が利用された。

注目すべきことは、 たとえば四川の成都で鉄銭に代わり手形が市民のあいだを便利に次々と通用したことで、 この手形が交子と名づけられた。 すなわち貨幣の持ち運び困難は交子隆盛を導いた。

 

(3) 私交子の制度の確立と紙幣性の獲得

交子が紙幣となるにはいくつかの段階を経なければならなっかった。

交子の祖先は唐の手形であった。 唐時代の金融機関である櫃坊は、 始め預かり業であったが社会的信用がつく と預かり証の信用も高まり、 預かり証が現金に代わって取引きに使われるようになつた。 中唐の貨幣経済の躍進は預かり証を手形と し、 重い貨幣に代わり手形が大口取引きや、 高価な物件の取引きに多用されるようになった。

櫃坊は始め長安などの大都会が主であったが、 五代を経て宋になるころには都市の発達や商工業の発展にと もない、 貨幣経済の発展で似たよ う な金融機関が地方の諸都市にもでき始め四川にも普及した。 この金融機関は唐いらい高い信用を持っており、交子の発展も此の信用が基礎であった。   (註11)

中国最古の紙幣である交子を発行した交子鋪は櫃坊から発展した金融機関であり、 櫃坊の発行した手形が交子発展の第一段階といってよい。

また第二段階は既に (2) でも述べた通り四川に於ける小口手形の普及で、 この時期に交子と名づけられ飛躍的に使用者が増加したと思われる。 北宋による鉄銭区域の強制は、 四川の成都を中心と して交子を発展させた。

(註16)

第三段階は一般に私交子と言われる、 私交子の発展については不明な点が多い、加藤繁氏・ 「支那経済史考証」   (下) によると、 いつ始まつたかは文献では不明である。   「宋朝事実」   (巻15) によると「成都の豪民すなわち交子鋪は人民の依頼に応じて交子を発行した。 まず見銭 (現金) を受取りついで交子額面にその銭の数を書き交付した。 交子鋪は組合を作り、 ときどき集まり協議をした。 また同じ紙を使用し、 無記名で、 銭の多少にかかわらず、 依頼のままに発行したので、額面は一定しなかった」 としている。

交子を発行所に持つて行けば交子鋪は 1 貫文につき3 0文を割引き、 現金に兌換した。 発行手数料も始めは設けられたのであろうが交子は使うのが目的なので兌換の要求も少なく、 交子鋪としては兌換金を投資して利殖を図れるため競争で客を得ようとして、発行手数料は取らなくなつたのであろう。投資は不動産や宝貨にしていたとされている。

交子には 「界」 という制度があつた、 恐らく始めは券の汚れで一定期間のちに新券と交換することで始まったと思われる。界は最終的には3年を「一界」 とし、3年の流通期限で券の引換が必要であった。界の制度は1011年に始まり、またこのとき交子に単位が定められた。 単位がどのように決められたかは不明であるが一貫のものがもっと も流通した。 単位制度の導入は交子の流通が盛んで発行額が多く、流通の便を図ったものである。   (註17)

この段階で交子は紙幣的に使用された約束手形であった。 もっとも注目すべきことは、 トラブルもあったとは思うが強制通用権のない金融業者の交子が盛んに流通したことである。