手形から信用貨幣へ--横山俊雄「中国に於ける紙幣の発展」(4)

 横山俊雄「中国に於ける紙幣の発展」の第三章の後半。「いずれにせよどち らかの時点で交子は紙幣性を備えた手形から、 官の都合で一方的に信用紙幣へと変えられた」ところが焦点。

 

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(4) 官営交子の信用貨幣への移行

〇政策的干渉

1 0 2 2年に私交子を禁じたのは、 外敵に弱い宋の国内統治に原因があった。統治にさいし最も危険な四川にたいする対策として、 四川に経済的圧泊を加え独立運動を起こす経済的余裕をなく し、 しかも生活には困らぬ統治をするのが理想的であつた。

しかるに交子の発展は交子鋪に経済力が集ま り、 四川の貨幣の統制権もまた彼らの手に奪われる危機をはらみ、 直ちに干渉すべきであった。

政府は巧みな口実を設け交子鋪の交子発行を禁止し し、 次に民間交子の兌換を終わらせ1024年2月に官交子が発行された。   (註18)

〇官交子初期の制度

制度は民間と同じであったが異なるところは交子を国家公認とし、 さらに国家の保証により流通した。 始めは人民の要求により発行したので強制通用権は使用しなかったと考える。 ここまでは紙幣的に使用された約束手形であった、 しかしやがて預り金を財政に使用 し、 また兌換を積まず交子を発行し軍需品を購入した。〇兌換を積まず軍需への流用

加藤繁氏によると 「宋会要」   (食貨巻36) 1026年3月6日の所に「四川の益州等に於いて交子を以て陜西の糧草価格を支払った」 とある。 また 「続資治通」   (長編巻百六十)、 1047年2月の条に「益州交子務の交子30万貫を泰州に送らせ、 泰州に於いてこれを糧草代価に使用した」 ことが記されている。 しかしほかの文献によると1045年ごろ、 すでに30万貫が同様目的で使用されたことがわかるので合計60万貫となる。

従来糧草納入商人には僻地への現銭輸送が困難なため、 交引 と いう現金支払証書が渡され、 京市または州都で現金が渡された。 陝西の支払は鉄銭で行われてきたが1 0 2 6年から商人の希望により鉄銭のほか交子をも使用することになった。これは交子の官営後に当然起こることといってよい。 この交子は兌換を積まなかったので商人が兌換を希望しても要求に十分こたえられず、 このため交子の市価が下落し1051年に交子を糧草代価に当てることを止めた。

これが起こったのは西夏との戦いで増加した禁軍の数は40万で、 主として陜西国境に配置され、 その国境防衛のために1 年の経費は急に増加した。 このため余裕のある 「路」   (地方組織) から経費を、 これにまわすなど種々の方法を行いやっとこの費用を支払い得た。 この状況からみて益州の交子60万貫が泰州に送られた理由は明らかである。

以上官交子が財政に利用され兌換銭が一時なくなったいきさつを説明した。 しかし、 私交子が始めて官交子になった直後の発行額は350万貫を越したとされている。 このとき人民が交子購入に支払った鉄銭350万貫が上記の兌換なしの交子に当てられたのであろう。 しかし眼前に積み上げられた鉄銭がそのままであったとは考えられない。 財政的な使い込みはそれ以前から始まっており、 既に相当減少していた可能性が十分考えられる。

〇両界交子の発行

その後、 西夏との関係は平静に戻り兌換を積みま し、 交子の信用が回復したのであろ う 。 この事は特に文献はないが両界交子発行後の交子の市価がほぼ額面と一致していた事から証明できると思う。   「宋史食貨下三」 によると 「1073年要求が多いのでさらに交子の発行定数を125万貫追加発行した」 ことを述べ、交子の両界すなわち250万貫の発行はこれより始まったとしている。 日野開三郎氏によれば、 これは折々に人民の希望によりまた財政の都合により、 少しずつ積み上げられた発行量の追認であろう。 突然2倍になるのは不自然であり、 この事は交子の市価が大きく動いていないことからみても自然に増加したものと思われる。   「続資治通」   (巻三六六)、 1086年2月の条に当時「1貫の交子は安いときでも900文、 ときにはプレミアムがついて1100文」で通用したとしている。   (註19)   (註20)

〇官交子の崩落

しかし、   「宋史食貨下二」は続いて「1094年以後また陜西国境の軍需物資や募兵の費用として少ないときは数10万貫多いときは数100万貫使用し、成都の人民の交子が不足するありさまで、 毎年定数なく発行した。 1 1 07年ころになると1界はついに20倍となり約2500万貫を超え」、 このため「交子の市価は1000文の交子が10数文」になったことを述べている。

(註21)

〇平価切り下げと一部切り捨ておよび兌換の積立

そこで新交子を出し旧交子を1 ;4の比で交換した。ただし41界から43界の3界は交換しないことにし、数千万貫の交子を切り捨て1110年から成都に50万貫の銭を蓄え本銭とし、 兌換を開始しやっと平常に戻った。

(註22)   (註23)

・ 1 1 1 1年には交子を強制的に流通させるため、 政府に対する支払いには新交子をつかわせる等の強制的制度をやめた。

「宋史食貨下二」はこれに続き「旧年は交子125余万貫にたいし本銭36万貫を備えた」 とし、 さらに引き続いて「1119年以降旧法にしたがっているので値が平静だ」 としている。 果たしてどの時代にこの制度が始まったのだろうか。(註24)   (註25)

〇交子は信用紙幣になった

1 0 2 4年は私交子が官交子になつた直後で、 兌換準備金は手形と同金額だったと思われる。 しかし、 1051年に準備金は西夏の防衛費に使われてしまった。

私交子を禁止し官交子にした目的の 1 つは西夏防衛費の不足に交子の兌換銭を当てる事であったと考えられる。 恐らく私交子を禁止し官交子にしたのは差し当たりは防衛費が主目的で、 併せて四川の強大になつた交子鋪の力をそぐ伝統的政策に沿うことになり、 一挙両得の策として行われたのであろう。

交子の兌換にどの程度の準備金が必要かは数年あれば経験で解る事なので、 必要な兌換準備金を決めるとすれば官交子を始めて発行して2または3年、 1 025年ごろには兌換準備金制度を決めることは可能であった。 あるいは1 1 10年ごろいったん交子を軍事費に使うのを中止した折りかの、 いずれかであろう。

いずれにせよどち らかの時点で交子は紙幣性を備えた手形から、 官の都合で一方的に信用紙幣へと変えられた。 しかし交子は界があり界が終わると券の交換または兌換が必要で、 その際1000文につき30文の手数料が必要であった。

制度からみて、 交子には通用期限がある点と、 兌換手数料がある点に、 手形性がある。

すなわち交子はこの時点で手形性が残る信用紙幣の段階に達したといえる。

 

 

(5) 財政と交子

財政は交子の発展とは必らずしも深い関係はないが極めて重要なので取り上げる。

〇交子の利

交子は兌換準備金制度の下では、 初発行に際 して交子の発行額よ り兌換準備金の差が交子発行の利となる。 これは発行量1 25余万貫より準備金36万貫を除いた額、 約90万貫が新発行の交子の利である。 ただし、 界が終わり取り替えの交子にはこの利益はない。

しかし、界が終了し新交子と旧交子との交換にさいし、常に旧交子20余万貫が期限中に帰ってこないため無効となる。 これは水火不到銭と言われ官の利益となった。

次に交子の交換に対し交子1貫あたり30文の手数料を取り、 これが毎界約3万貫に達した。 界の交換に際し約27万貫の利があり、 これは予め予算に入っていた。   (註26)

特に新しい交子の増発は、 まとまった収入を得るために便利な財政手段であったため利用された。

北宋の財政の窮乏

財政窮乏の、第1回は1005年ごろ始まった。 これは北宋の始めに行なつた北伐の報復として契丹が侵入したことであった。 しかしこの時は財政の破綻は起こらなかった。

次は1023より1048年の間で西夏が勃興し、北宋契丹の対立を利用して北宋に侵入したことで、 北宋は両国に備えるため支出は激増した。 北宋はこのとき90万貫の巨利が入る可能性のある交子を政府に移管したのだから、 この処置は財政に深く関係があり、 しかも交子を信用通貨に変えた兌換準備金制度もこのとき決められた可能性が強い。

1070年ごろ北宋は対外積極策をとり、 このため財政を充実する政策がとられたことと、 1073年に実施された両界交子の発行は深い関係があるとみるべきである。 なぜなら交子発行額の増加はこの場合9 0万貫の巨利が政府に入るからである。

北宋は1070から1085年ごろの間が、国力は絶頂に達しそれから下がつていく、 それにもかかわらず対外積極策を取ったため財政は極端な困窮状態が続いた。 特に西夏への外征は交子の増発を招き、 1 1 07年には交子の総発行額2千5百余万貫に達し、そのため交子の価格は四分の一に下がり、 1110年ごろには一千文の交子はわずか十文で取り引きされるようになった。 ついに政府は大英断をくだし一部分の交子を切り捨てたうえ、残りの交子は幣価を切り下げ、 さらに新交子を発行し、新交子の兌換を再開し、やっと平静を取り戻した。 これに懲りて以後は苦しくともこのような暴挙は避けた。

政府にと り、 唐以来急速に勢力をつけた商人階級に対する統制には、 貨幣の流通を統制することが重要で、 交子の官営は四川商人に対する統制であった。 しかし紙幣の乱発は商人に恨まれ信用を失い、 その統制力にたいする大切な手段を失うことになり、 これは亡国につながる危険性があり、 以後濫発を慎んだ。

 

 

(6)結論

交子は段階を踏んで手形からほぼ紙幣へとちかずいた。 すなわち鉄銭を押しつけられた人民は、 既に信用の高かった金融機関で鉄銭を手形に換えて、 これを市場で鉄銭の代わりに流通させた。 これは北宋の初期に始まったと思われ、 この手形は交子と名ずけられ盛んに流通し、 金融機関は交子鋪と名づけられた。

私交子の発展は トラブルの一掃と使い易さのために種々の規約変更が行われた。解っていることは初期の界は3年より短かかったものと想像できること、 および終わりごろ交子の金額が1貫に定型化したことなどで、 その過程は不明である。

発行手数料も始めはあったことと思われるが、 兌換が行われることが少なかつたのであろう、 交子鋪は預かった金子を運用し利を上げた。 このためか文献によれば交子鋪の競争も激しかったことがうかがわれ、 その結果手数料も兌換時のみとなったのであろうといわれている。 なお交子の制度はだんだんと発展し、 制度の基本は民間でほぼ完成していたことは注意すべきで、 これは交子鋪の功績と考えてよい。

1024年2月交子は官営となり、時期は不明であるが官は制度を改め、交子の預り金のうち一部を兌換用に残し、 残りを財政にまわした。

交子は民間で発行しているときは、 紙幣のように使われた手形であった。 官営に移り交子は手形性の残った信用紙幣となった、 当然発行権、 強制通用権も行使された。