ウェーバーのピューリタニズム評価の問題点--山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(3)

山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」の三回目。今回は「近代資本主義文化に対するピューリタニズムの影響力をヴェーバーが過大評価した」理由を考察しています。

 

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□B.理念型としての「ピューリタニズム」
儒教とピューリタニズム」論文の中の「儒教」と「ピューリタニズム」は,いずれも抽象度の高い理念型である。それらは歴史的実在としての儒教とピューリタニズムの特定の側面を強調したモデルである。したがって,西洋史と東洋史の歴史家から,儒教とピューリタニズムそれぞれの多面的な姿を単純化したことに対する批判が提起されるのは,当然である。しかし,問題は,そのことよりも,むしろ,それらを単純化する際の観点の良し悪しにある。

 ただし,「儒教」についての検討は,私の良くなし得るところではないので,中国史家に任せたい(9)。本稿では,まず,歴史的用語としてのピューリタニズムとヴェーバーの理念型としての「ピューリタニズム」の相違を明らかにし,次には,ヴェーバーの「ピューリタニズム」という理念型の中に,その文化史的な意義への彼の過大評価が反映されている,という問題点を明らかにしよう。


 「ピューリタン」という語は,歴史的には部外者が使用した蔑称であって,正確な実態を持たない語であるが,イギリス史学の用語としてのピューリタニズムは,イングランドについては一般的に,16世紀後半から1660年の王政復古までについて使用されてきた。

 この期間のうち,1640年ごろまでのピューリタン指導者は,国教会(アングリカン教会)を内側から改革して宗教改革原理を徹底させようとした国教会聖職者であり,また少数の分離主義者を含んでいた。分離主義とは「個人として神から呼び覚まされ,召された者のみからなる教団」つまり「教派=ゼクテ」を形成するために,地域住民包括型の「教会=キルヘ」から分離していく立場である。

 1640年代の内乱期と1650年代の共和制期においては,国教会体制が崩れたので,長老派,独立派,パティキュラー・バプテスト,ジェネラル・バプテスト,クエイカーといったピューリタン諸派が出現した。つぎに,国教会体制が再建された1660年代以後においては,国王と国教会に帰順しなかったピューリタンは,カトリック教徒とあわせて,非国教徒と呼ばれるようになった。したがって,1730年代末に英国国教会の高教会派から発生して18世紀末に国教会から分離したメソディスト派は,ピューリタンに含まれない(10)。

 他方,北アメリカでは,植民地時代のニュー・イングランドで,分離主義カルヴィニストのピューリタニズムが強い影響力を持ったと考えられている。彼らは,1620年にプリマスに上陸した,いわゆるピルグリム・ファーザーズのような亡命移民とその末裔である。しかし,分離主義ピューリタニズムの影響力が独立後のアメリカ合衆国で,どの程度,何時まで強力であり続けたかについては,確定的なことは言えない。植民地時代に,すでに,クエイカーやバプテストのピューリタンだけではなく,イングランド国教徒やカトリック教徒の影響が,中部や南部の植民地に及んでいた。また独立後は,イングランドだけではなくヨーロッパ,さらには東洋からも,さまざまな信仰をもつ入植者がアメリカに流入してきた。

 こうしてアメリカ合衆国は「人種の坩堝」「文化の坩堝」となり,その坩堝の中でアメリカ文明が形成されてきたわけである。いずれにせよ,「ピューリタニズム」は本来,かなり限定された意味を持つ語である。ヴェーバーは「儒教とピューリタニズム」論文においては「ピューリタニズム」を,ある場合には本来の狭い意味で使用するが,多くの場合,それを『倫理』論文における「禁欲的プロテスタンティズム」の同義語として使っている(11)。

 ヴェーバーの言う「禁欲的プロテスタント」とは,プロテスタント諸派の中で,とりわけ信徒の生活に組織的な規律を貫こうとしたグループのことである。すなわち,彼によれば,「歴史上,(ここで用いる意味での)禁欲的プロテスタンティズムの担い手には,大づかみに見て四つのものがある。1.カルヴィニズム,とくに17世紀に西ヨーロッパの主要な伝播地域でとった形態。2.敬虔派。3.メソディスト派。4.再洗礼派運動から発生した諸ゼクテ,がそれだ(12)」。このような「禁欲的プロテスタント」を「ピューリタニズム」という用語で代用するので,本論文のなかでの「ピューリタニズム」は,歴史家がふつう考えるよりも,はるかに大きな文化史的意義を持つ概念として使用される。
 このようなルーズな用語法の背後には,近代資本主義文化に対するピューリタニズムの影響力についてのヴェーバーの過大評価がある(13)。それは例えば,「儒教とピューリタニズム」論文の中では,次のような言説に現われる。

 「有用な実学的知識,とりわけ経験的・自然科学的ならびに地理学的な性質の知識や,率直明快な現実的思考,専門的知識などを,教育目標として最初に計画的に奨励したのは,ピューリタン……であった(14)」。

 ヴェーバーはこの議論の根拠について言及していないが,おそらくヴェーバーが生きた時代におけるイギリス歴史学会の通説を反映したものなのであろう。当時のイギリスの歴史学会では,いわゆるウィッグ史観が支配的であった。特に非国教徒系の歴史家は,イギリスの民主主義の伝統の形成や,工業化の進展,さらには労働者への福祉などにおける非国教徒の貢献を強調した(15)。実用的科学へのピューリタンの貢献というイメージも,そのような背景から紡ぎだされたのであろう。

 17世紀においてピューリタンが科学の発展に貢献したという説については,1960年代なかごろにPast and Present 誌に掲載されたCh. ヒルの論文が発端となって,同誌上で激しい論戦が繰り広げられた(16)。この論争は,論点を変えながら現在も続いているとも言えるが,現在では一般に,17世紀における近代科学の推進者は,政治的にも宗教的にも党派性が弱く,厳格なヴェーバーピューリタンはむしろ自然科学に対して敵対的だった,と考えられている(17)。

 むしろ,1688年の名誉革命前後の英国国教会高位聖職者の中に,M. ジェイコブが「ニュートン主義者」と名づける近代科学の推進者たちが存在した事実のほうが興味深い。彼らは当時興隆しつつあった機械論哲学に基づく自然科学を,経験主義および「神の摂理への信仰」と結びつけて自然神学naturaltheology を成立させた。彼らはエラスタス主義者であるとともに広教主義者でもあり,自然神学の立場から名誉革命体制を支持した(18)。

 いずれにせよ現在の英米の歴史学会では,ピューリタニズムを近代科学発展の担い手とみなすヴェーバー的な見解は,否定されているのである。近代資本主義文化に対するピューリタニズムの影響力をヴェーバーが過大評価したのは,彼が「禁欲的プロテスタンティズム」の(彼にとって重要な)特徴の凝縮された姿を狭義のピューリタニズムに見出したからでもあろう。いずれにせよ,以下の論述では,ヴェーバーの言説において「ピューリタニズム」や「ピューリタン」という用語が「禁欲的プロテスタンティズム」や「禁欲的プロテスタント」を意味している場合には,わたしは用語読み替えを行なって,後者の表記を用いることにする。

 



(9)「儒教とピューリタニズム」論文の中国文化についてのヴェーバーの捉え方が一面的であることは,21世紀に生きる我々にとっては明らかである。のちに明らかにするように,ヴェーバーは中国文化を,「魔術の園」に浸りきり,慣習による無数の束縛に縛られた民衆と,現状維持のためにこれを容認し,「現世」の様々な諸条件の必要に「合理的に」対応するエートスに支配された知識人=官僚によって,特徴づけた。しかし,それゆえに中国で「資本主義の精神」が生まれなかったというならば,ヴェーバー死後の中国の社会,経済,文化の発展はどのように説明できるのか。中国における共産主義革命の成功や1980年代以後の「改革開放政策」の成功による中国経済の大発展は,どのように説明されるのか。我われは,儒教にもキリスト教と同じように,様々の要素があり,時代の変化とともに,朱子学陽明学などのさまざまな学派を生み出してきたこと,さらには,清代末期にキリスト教の影響を受けた太平天国の運動が,民衆の広範な支持を受けたことをも思い起こすべきだろう。このことは,中国の宗教文化をより多様で動態的なものとして再考することを要請する。ヴェーバー社会学の文脈からいえば,ここには「支配」の観点を導入する必要もあろう。すなわち,中国の諸王朝における「家産官僚制的支配」の形成とそれを打破する「カリスマ革命」という問題である。しかし,20世紀における中国の社会,経済,文化の発展は,ヴェーバー社会学の守備範囲をはるかに超えた問題だと思われる。これらの点について,私は,小林一美先生と阿部幸信先生から貴重なご教示をいただいた。
(10)Cross, F. L., ed., The Oxford Dictionary of the Christian Church, 2nd edition, 1974, p. 1146.

(11)ヴェーバー儒教とピューリタニズム」『論選』188頁では,「ピューリタン」の中に,カルヴィニスト,再洗礼派,メノナイト派,クエイカー派,禁欲的ピエティスト,さらにメソディストが含まれる。これは『倫理』138頁における「禁欲的プロテスタンティズム」と全く同じ範囲である。
(12)ヴェーバー『倫理』138頁。
(13)20世紀初めのアメリカ旅行の体験を基にして著された『ゼクテ』論文の中の次の言説からも,ピューリタンの文化的意義についてのヴェーバーの過大評価が推察できる。――「[分離主義ピューリタンの]諸ゼクテに維持された方法的な生活態度の特質ならびに原理が,あれほど一般的に広まらなかったとするならば,資本主義はいまに至るも,アメリカでも,今日あるような姿に,恐らくなっていなかったのではあるまいか」ヴェーバープロテスタンティズムの教派と資本主義の精神」中村貞二訳,ヴェーバー『宗教・社会論集』世界の大思想-7,河出書房,1968年,所収。91頁。
(14)ヴェーバー儒教とピューリタニズム」『論選』203頁。
(15)ウィッグ党史観については,H. Butterfield, Whig Interpretation of History, London, 1965,越智武臣訳『ウィイグ史観批判:現代歴史学の反省』未来社,1967年,を見よ。
(16)この論争にかかわる主要論文は,Ch. Webster ed., The Intellectual Revolution of the Seventeenth Century,London,1974に収録されている。
(17)Hunter, Michael., Science and Society in Restoration England , Cambridge,1981,大野誠訳『イギリス科学革命』南窓社,1999年,第5章; Brooke, J.H., Science and Religion: some historical perspectives, Cambridge,1991,田中靖夫訳『科学と宗教』工作舎,2005年。