儒教と経済倫理--ウェーバー『儒教と道教』を読む(15)

□中国における法の観念
 中国には自由という観念がなく、私的な所有の神聖さの観念もなかった。神的な不変の自然法というものは知られていない。聖法と俗法の違いも認識されず、弁護士という職もない。自然法や原始状態の観念はなく、西洋の倫理学的な中心概念が儒教には知られていなかった。


 西洋の近代的な法の合理化は二つの力で推進された。第一は、厳密な形式的で予測可能な法の体系と、訴訟手続きにたいする資本主義的な関心であり、第二は絶対主義的な国家権力の官僚的合理主義の力である。「合理的に訓練され、また地方間で均等な昇進のチャンスを獲得しようと努力する官僚階級によって運営される法が、法典化された体系性と一様性をもつ」[11]ようになるのである。


 家産制の中国では、法曹身分も資本主義的な力も無視できた。そのため形式的な法律学は発展せず、「法の実質的な徹底合理化も決して企てられることがなかった」[12]。さらに中国には自然科学的な思考も欠如していた。

儒教の性格
 儒教は宗教ではなく倫理だった。しかもそれは「現世とその秩序と因習への適応であり、教養ある世俗人たちのための政治的準則と社会的礼儀規則との巨大な法典」[13]であった。人間は善であり、「個々の私人がもっともよく天に仕える方法は、かれ自身の真なる本性を発展させること」[14]だった。根源悪の概念はなく、人間が本来堕落しているという観念もごく遅れて登場した(性悪説)。


 経済的な欲望や性的な欲望は、「人間の行為の基礎的な刺激」[15]であり、人間の堕落や罪の状態などは想定されていない。儒教は呪術を否定する。中国の君主は礼にしたがうこと、すなわち「自制ある沈着と非のうちどころのない態度、つまり儀礼的に順序正しい宮廷的サロンの意味での典雅と威厳」[16]を示すことが求められる。「きびきびとした自制と内省と慎み、とりわけ情熱の抑制が中国の君主の特徴なのだ」[17]。


 儒教的にみて「罪」とされたのは、孝の欠如である。孝とは封建領主にたいする恭順、父母と師と、職業的な階層の上位者と官吏一般にたいする恭順である」[18]。

儒教と経済倫理
 儒教は「利欲を社会的不穏の根源とみなしていた」[19]。ただし経済的利益の追求が否定されたのではない。孔子ですら、「その努力の結果がすこしでも保証されてさえすれば、『鞭を手にした使用人ですら』富をえようとするだろう、という」[20]。


 ただし君子のありかたとして営利は望ましくない。「魂の均衡と調和は、営利のリスクによって動揺させられるからである。このようにして、官職受祿者の立場が倫理的に理想化されて登場する。官職的地位はとりわけ、それだけが人格の完成を許すという理由によっても、高級な人間が就くに値する唯一の地位である」[21]とされた。


 孔子によると、医学、農業。祭司的な営利は、「小道」である。これは専門的な活動だからである。「君主は多面性をえようと努力する」[22]ものなのである。この多面性は、儒教的な教養だけによってえられるものである。


 この理想は、人間はある一つのことだけに優れることができるし、優れるべきであるいうプラトンの思想とは対照的であり、禁欲的なプロテスタンティズムの職業概念とも対立する。専門教育は、「けちな職人根性」[23]にしかみえなかったのである。

儒教倫理の特質
 この基本的な違いを別とすると、ピューリタニズムの謹厳主義との類似が確認できる。君子は「美の誘惑」[24]を避ける。また友人との関係などの「すべての倫理は、農民風の隣保団体の原生的な交換の原理、お互いさまに帰着した」[25]。敵への愛は否定され、敵には正義を、友には愛をということになる


 「どんな完全性も不断の学習によるほか、つまり文献学的な勉学によるほか、達成されえなかった」[26]。ただし学習とは、既成の思想を学ぶことにすぎない。


儒教と自然状態
 儒教には、原罪の前の至福状態のようなものがない。「文化の前段階としてはむしろただ教育のない野蛮状態があるにすぎない。この状態の手本を示しているのが、たえず侵入しようとしている野蛮な山岳部族である」[27]。


 これを改善するには、「まず裕福にし、それから教育したまえ」[28]と教えられている。「貧困と蒙昧だけが原罪的な性質であり、教育と経済は人間を鋳造する上に全能である。
儒教は黄金時代の可能性を、純真無垢な原始的な自然状態にではなく、むしろ最善の文化状態のうちに認めた」[29]のである。


 ただ問題なのは、「礼記」の冒頭に理想社会が描かれていることである。それによると「大道」とは、人々が豊かに、平等に、記との生活を送っている状態である。これで「大同」が実現される。これにたいして「小道」は、「利己心によって就くりだされた経験的な強制秩序で、個人的な相続権、個別家族、戦士的な権力国家、個人的な利害関係の独占的な支配」[30]を伴う。これによって生まれるのが「小康」である。


 これは儒教的な楽天主義であり、正統の学説と対立する神秘主義的な教義だったとみられる。ウェーバーはこれを受け継いで理論化したのが道教だったと考えている。「あらゆる幸福の源泉は政府の無為であるという、ふつう異端説とみなされている教説は、神秘主義に早変わりした正統儒教的な楽天主義の最後の帰結にすぎなかった」[31]のであり、これこそが「道教道教独自の帰結に導いた」[32]のである。



[11]同、252ページ。Ibid., p.438.
[12]同、253ページ。Ibid..
[13]同、257ページ。Ibid., p.441.
[14]同、258ページ。Ibid., p.442.
[15]同。
[16]同、262ページ。Ibid., p.445.
[17]同。
[18]同、263ページ。Ibid., p.446.
[19]同、266ページ。Ibid., p.448.
[20]同、267ページ。Ibid.
[21]同。
[22]同。
[23]同、268ページ。Ibid., p.449.
[24]同、269ページ。Ibid., p.450.
[25]同、270ページ。Ibid., p.451.
[26]同、272ページ。Ibid.
[27]同、345ページ。Ibid., p.496.
[28]同、346ページ。Ibid.
[29]同。
[30]同。Ibid., p.497.
[31]同、348ページ。Ibid., p.497.
[32]同。