古代中国の農業と都市--雨宮健「古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想」(1)

古代中国の経済思想について、雨宮健「古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想」から読みます。

 

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(1)農業

 戦国時代に鉄製農具と牛耕によ り農業生産性が高ま り 、 農民は氏族的共同体関係を離れ家族単位の土地所有を実現し、当時五口の家と よばれた小農民層が出現した。

同時に手工業も独立した(影山[1984]4頁)。 『管子』軽重乙(遠藤[1992]) に

「一農の事、必ず一耜一銚一鎌一耨一椎一  䦍  ありて、然る後に農たるを成す」

とあるように、彼らの用いた農具は小型の手労働農具である (佐原 [2002]358頁)。

武帝末年から昭帝初年以降の代田法により生産性が増し、畆当たりの1年間の穀物収穫は240歩1畆制で概ね3石位になったという。前漢末期においては1戸(5 人)当たりの墾田面積は約70畆であり、所有面積は100畆(1頃)であったと考えられる。前漢前期については墾田面積約50畆、所有面積100畆とみなすべきである(山田[1993]89∼90頁)。農業生産性については更に後の2節(14)で述べる。

中国における穀物は粟(アワ)、黍、稲、麦、豆、麻、稷、粱を含む(篠田[1978]8頁)。このうちどれが主要な役割を果たしたかは地方によって異なるが、最も古くから栽培された代表的な穀物はアワであった(篠田[1978]9頁)。このため、時に穀の代わりに粟の字を使うことがあるが、その場合はゾクと読む。農家は当然穀物以外のもの (例えば、桑、果物) を生産する場合もあった。穀物以外のものの生産高と穀物生産高の比率については後に2節(14)で述べる。

 

(2)食糧消費量

 食糧消費量は経済学者にとっては最大の関心事であるとともに、 後に GDP 推定の際必要になる故ここに論ずる。『居延漢簡1』(永田[1989])に現れる1ヵ月の穀物消費量は成年男子の場合、小は1.33石、大は3.33石まである。山田[1993]128 頁は1ヵ月平均3石という。成年男子以外については成人女子(15歳以上)は2.17 石、子供(7歳以上14歳以下)は1.67石、6歳以下の子供は1.17石という記録が『居延漢簡』に現れる。ここから山田[1993]660頁は家族5人の1ヵ月の粟消費量を10.5石と推定する。『居延漢簡』に現れる塩の1ヵ月当たりの消費量は概ね3 升である。『管子』海王(遠藤[1989])には1ヵ月成人男子は5と1/3升、成人女子は3と1/3升、子供は2と1/3升とある。『漢書』趙充国伝(小竹[1978a])には各人毎月2升9合強とある。

 

(3)都市

 中世ヨーロ ッパの例で明らかなとおり、 都市の発達は商業の発達に密接な関係がある。 したがって、市場と商工業について考察する前に都市の形態について述べる。

『戦国策』 趙策三によると、 戦国時代の中原地域の都市について、 「今千丈の城、萬家の邑あい望むなり  (1丈は10尺、当時の1尺は約23.1センチメートルであった)」とある。すなわち、1辺が2キロメートル余りの長さの城壁を持ち、1万戸もの人口を擁する大都市が互いに望見できるほどの近距離に散在していたという。『孟子』 公孫丑下に 「三里の城、 七里の郭 (1里は405メートル)」 とある。 『墨子』 雑守(山田[1975])に「率萬家にして城方三里」という。江村[2000]418∼435頁に戦国都市遺跡表があり、 実際1 辺2 キロメー トル以上の長さの城壁を持つ遺跡は多くある。中には1辺4キロメートル以上のものもある。戦国時代、三晋地域は商業交通の要地として巨大都市が発達したが、 その周辺地域では国都以外の大都市は発達しなかった(江村[2000]384頁)。都市の城郭内には王、貴族、官吏、学者、兵士のほか、商人、手工業者、農民が住んだ。城郭内にある程度の農地があり、城外近郊の農地を耕作する農民も城内に住んでいたと考えられる (江村 [2000]346∼347頁)。

三晋地域の国々では、 県、 すなわち都市は独自の銅兵器製造機構を持ち、 「県=都市」の最高統括者である令によって統括されていた(江村[2000]387頁)。これらの国々は都市を県に編成して官僚制的に支配していたが、 その独立性を認めたうえでの支配であった。それ以外の諸国では、都市は中央政府に対して隷属的であった(江村[2000]390頁)。秦は天下統一後、中央集権的な郡県制による都市支配を行い、 城壁を破壊し、 銅兵器鋳造権を奪った。 秦末に起った反乱は都市の反乱であった。 漢の高祖劉邦は皇帝になった翌年に、 秦によって破壊された都市の城壁の修復を命じている (中國哲學書電子計劃、 『漢書』 高帝紀下)。 しかし商人に対しては差別的な対応をしている(『史記』平準書、吉田[1995])。この差別は恵帝、呂后の時代にゆるめられ、 文帝の時代に更に自由になった。 しかし市籍 (2節(4)参照) ある者は官吏になれないという制約は存続した。 前漢前期の県は上位の機構である郡や国から比較的独立していた。