「農民生活における新しい経済的動向」--レーニンを読む(001)

●論文作成までの背景

 レーニンは1870年4月12日(20日)に生まれた。
 1887年には兄のアレクサンドルがツアーの暗殺未遂の容疑で対話され、死刑を執行される。レーニンはその弟としてつねに政府から睨まれていた。この年、カザンの革命的学生サークルに参加している。
 1888年にはフェドセーエフの組織したマルクス主義サークルに加入。
 1889年にはカザンからサマラ県の農村に転居。やがて都市サマラに転居。
 1890年、大学の入学資格が得られないために、国家検定試験でペテルスブルク大学の卒業資格を取得することを目指す。必死の勉強。四年間の大学の教程を一年半で学ぶ必要があったためである。
 1891年には同大学の法学部の国家検定試験に合格。優等の卒業証書を取得している。
 1892年2月に弁護士補の資格を取得。3月からはサマラの裁判所で弁論を始める。貧農や手工業者などを弁護する。
 1893年に「農民生活における新しい経済的動向」の論文を作成し、サマラのマルクス主義者のサークルで発表。

■「農民生活における新しい経済的動向」(001)--全集第一巻(5-69)
 レーニンは、彼の初めての学問的な論文において、ポストニコフの『南部ロシアの農民経済』における農村の経済状況の分析を高く評価しながら、不十分な点を指摘する。この書物は「経済的裕福さが極端に違う多数の群への住民の分化が起こったことを明らかにした」(10)ものであり、裕福な農民が土地を集中する一方で、貧民たちは土地を失っていることが明白に示された。これはナロードニキの主張を反駁するものである。


 レーニンはこれを評価しながらも、「これらの群の経済状態をできるだけ性格に特徴づけ、こうして農民のあいだの経済的反応の範囲と原因を明らかにする」(41)必要があることを指摘する。「下級の群の農民の経営の性格に関するこうした[貧農が賃金労働者化しているという]問題を提起しなかったし、その経営にたいする賃仕事の関係を解明しなかった。このことが彼の労作の主要な欠陥をなしている」(49)と批判する。そのためにこの著作で示される農業問題の解決策が不十分なものとなっているのである。