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リュミエール兄弟、パリ万博で映画を映写(1900年)--20世紀の思想と芸術

リュミエール兄弟がついに映画を実用化した。「また『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという伝説を産んだ」という。短い映画だが、映画のもつ力を感じさせる。ベルクソンは時間の空間化の実例として、当時流行し始めた映画をあげるのがつねだった。

 

以下はWikiから。

リュミエール兄弟 - Wikipedia

 

 

父・アントワーヌ(1840年3月13日 - 1911年)はもともと肖像画家だったが、ダゲレオタイプを手にしてから写真館を開業していた。1881年に弟・ルイは父の仕事を手伝い始め、感光剤や写真乾板(ガラス乾板)の研究・改良を行った。ルイの研究が評判になったので、アントワーヌはリヨンに写真乾板の工場を開設。さらに、1890年頃にルイが開発した乾板感光剤「エチケット・ブルー(青ラベル)」が大ヒットした。

1894年、パリでアントワーヌはエジソンの開発したキネトスコープを目の当たりにした。父の勧めで兄弟は動画の研究を開始。キネトスコープを改良しスクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフ・リュミエールを開発した。

当時、義手や義足、写真機材等の製造を営んでいた二人は、自らの工場の近辺等で撮影を行い、1895年12月28日パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(現ホテル・スクリーブ・パリ)で、その映像などを人々に有料公開(世界初の映画館ともされる)した。この中で、世界最初の実写映画とされるのは『工場の出口』である。また『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという伝説を産んだ(これについては異説もある。詳細は作品の項目を参照)。二人は1900年に開催されたパリ万博でも映画を上映しており、来場した世界中の人々を魅了している。一方で、リュミエール協会を立ち上げ世界中にカメラマンを派遣、日本を含む世界各地の最初期の映像を多く残した。

その後、二人はシネマトグラフの特許をパテに売り渡し映画事業から撤退するが、二人の活動に刺激を受けたエジソンは映画撮影のための施設を作り、劇映画製作に乗り出していった。

 

www.youtube.com

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