ゲオルク・イェリネク『一般国家学』を刊行(1900)--20世紀の思想と芸術

ゲオルク・イェリネク『一般国家学』を刊行

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一般国家学 (社会科学古典選書)

1976/7
G・イェリネク、 信喜, 芦部

 

 

 

 

 

1851年6月16日、ライプツィヒで生まれた。彼の父アドルフ・イェリネックAdolph Jellinek、1821-93)は著名な律法学者でユダヤ教徒であったが、彼自身はキリスト教に改宗した。16歳の時にアビトゥーア(大学進学資格)を取得し、ウィーン大学ライプツィヒ大学ハイデルベルク大学で学んだ。1872年に哲学博士の学位を得て、ウィーン大学バーゼル大学ハイデルベルク大学で教壇に立った。しかし、改宗ユダヤ人であったことからウィーン大学教授の地位に就くことを妨害されたとされる。(なお、弟である言語学者のマックス・イェリネック(Max H. Jellinek、1868-1938)はウィーン大学教授になっている。)1893年より執筆が始められ1900年に刊行した『Allgemeine Staatslehre』(邦題『一般国家学』)は日本の天皇制限主権論(いわゆる天皇機関説)にも影響を与えている。なお晩年のハイデルベルク時代にケルゼン上杉慎吉が彼のもとで学んでいる。晩年は病気がちであったが、イタリア、ノルウェーなどへ旅行に出ている。また、1907年より1年間ハイデルベルク大学の副総長を務めた。1911年1月12日、ハイデルベルクで死去。

Schriften (Auswahl)

  • Die Weltanschauungen Leibnitz’ und Schopenhauer’s. Ihre Gründe und ihre Berechtigung. Eine Studie über Optimismus und Pessimismus. Hölder, Wien 1872 (phil. Dissertation, Universität Leipzig; Digitalisat).
  • Die Lehre von den Staatenverbindungen. Haering, Berlin 1882 (Digitalisat).
  • Die socialethische Bedeutung von Recht, Unrecht und Strafe. Hölder, Wien 1878 (Digitalisat).
  • Die rechtliche Natur der Staatenverträge: Ein Beitrag zur juristischen Construction des Völkerrechts. Hölder, Wien 1880 (Digitalisat).
  • Österreich-Ungarn und Rumänien in der Donaufrage: Eine völkerrechtliche Untersuchung. Hölder, Wien 1884 (Digitalisat).
  • Gesetz und Verordnung: Staatsrechtliche Untersuchungen auf rechtsgeschichtlicher und rechtsvergleichender Grundlage. Mohr, Freiburg im Breisgau 1887 (Digitalisat).
  • System der subjektiven öffentlichen Rechte. Mohr, Freiburg im Breisgau 1892 (Digitalisat).
  • Allgemeine Staatslehre (= Recht des modernen Staates. Bd. 1). Berlin 1900; 2. Auflage 1905 (Digitalisat); 3. Auflage 1914 (Digitalisat).

 

 

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イェリネック(Georg Jellinek)
いぇりねっく
Georg Jellinek
(1851―1911)

ドイツの代表的国法学者。ウィーンハイデルベルクライプツィヒの各大学に学んだのち、ウィーン、バーゼルの大学教授を経て、ハイデルベルク大学教授として研究生活を続け、法学、政治学、国家学の分野で大きな功績を残した。主著『一般国家学』(1900)は、ローマ時代から彼の時代までの国家学を研究、集大成した名著として知られ、そのほか『公権論』(1892)、『人権宣言論』(1895)などの著書もある。イェリネックの法、国家思想の特色は、当時の反立憲主義的な政治に対して「国家法人説」を唱え、国家の個人に対する絶対的な優位を説く思想を批判した点にある。イェリネックは、国家は憲法や法律を制定する主体であるが、法律を一方的に個人に義務づけることはできず、個人にも権利があるとし、また、国家は憲法や法律に拘束される(国家の自己拘束)として、国家に関して新カント派的な二元論的方法を展開した。国家の自己拘束に関して、国家は憲法や法律を自由に制定することができるから、このような国家行動についてはどうすべきかという問題が残されるが、この点に関してイェリネックは社会的諸勢力が規制すると述べているにすぎない。
 しかし、当時のドイツではイギリスなどと異なり議会制度が未発達であったから、国家の自己拘束による個人の自由の保護という主張も一定の意味があり、そのため、ほぼ同じ情況にあった日本において、彼の思想は美濃部達吉(みのべたつきち)の「天皇機関説」に取り入れられている。また、イェリネック国家法人説はケルゼンによって、社会的国家論はH・ヘラー、R・スメントによって発展させられた。[田中 浩]
美濃部達吉訳『人権宣言論 他三編』(1946・日本評論社)』

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国家自己制限説
こっかじこせいげんせつ
Selbstbeschrnkung des Staatesドイツ語

君主主権と近代的な法治国家理念の折り合いをつけるために考案された公法理論の一つ。1871年に成立した後発近代国家ドイツ帝国において、すでに時代遅れになっていた君主主権無条件的に貫徹することができなくなったので、経済権力を掌握している市民階級の要求する法治国家理念との妥協が図られ、国法学的には国家法人説という形で実質的に君主主権の温存が企てられた。この国家法人説の一環として君主主権と法治国家理念との妥協が国家と法の関係を説明する理論として主張されたのが国家自己制限説ないし国家自己義務づけ説Selbstverpflichtung des Staatesである。それによると、国家は法秩序を設定するばかりでなく、国家自身もこの「自己」の法秩序に服し、それによって法人格、権利義務の主体となる、とされた。それはイェーリングなどによって主張されたが、それを体系づけたのはイェリネックであった。彼は、19世紀のドイツ国家学の集大成といわれた『一般国家学Allgemeine Staatslehre(1900)において、国家権力は無制限な権力ではなく、法的範囲内で限定される権力、すなわち法的権力であるので、すべての国家的行為は法的評価に服すると主張し、この理論を国際法にも適用した。彼によると、国際法の妥当根拠は国家がそれを承認する点にあるとされた。
 国家自己制限説は、確かに、半立憲主義体制下にあったドイツ市民階級の自由主義的要求を、国法学の解釈論理を最大限に駆使して充足させようとした点に、括弧(かっこ)つきではあるが評価される側面をもっていた。しかしそれは他面、国家権力、具体的には君主権力が法を定立し、それに自己を義務づけるという一種の擬制によってドイツ帝国に近代的法治国家の形式を与えることになったが、実際には君主権力は自己の存続に不利な法を定立しないがゆえに、それは君主の専制権力を弁護するイデオロギーの役割を果たすものであったといえよう。それはケルゼンHans Kelsen(1881―1973)によってそのもつ理論的矛盾が指摘され、ワイマール共和国になって国法学的にも否定された。[安 世舟]
『G・イェリネク著、芦部信喜ほか訳『一般国家学』(1974・学陽書房)』

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国家法人説
こっかほうじんせつ
juristische Staatspersonドイツ語

19世紀後半のドイツ国法学が樹立した国家の法概念。アルブレヒトWilhelm Eduard Albrecht(1800―1876)によって創始され、ゲルバー、ラーバントPaul Laband(1838―1918)を経て、イェリネックによって完成された。国家は、一定の領土を基礎とし、固有の統治権をもち、国民を包括する団体と定義される。国家はその成員の個々の意思とは別に統一体として独自の目的をもち、機関を通じて活動する。国家は国民の人格化ではなく、国家それ自体が一つの人格、法人である。すなわち国家人格は、国家の個々の成員のみならず、その分割されない総体の外に存在することになる。国家を統治権の主体であるとするため、国家主権説ともよばれる。
 国家法人説は国民の人格を否定し、国家の人格のみを主張したところに特質がある。これは二つの効果を生んだ。第一に、国家を国民と対向するものとしたため、国民の国政への参加は概念必然性の問題ではなく、単なる合目的性の問題にすぎないとされた。第二に、国家とりわけ立法権は国民全体の福祉という理念から拘束されず、その全能が主張されることになった。ただし、第一点については、国家が逆に国民の権利領域に介入するときは法律に基づかなければならないということが帰結し、第2点については、立法権による他の国家作用の拘束ということが帰結するため、国民個々に一定の保障を与えるものであった。
 国家法人説は、いわゆる「上からの」近代化が推進された後発資本主義国ドイツの君主主権の憲法下において、労働者階級を中心とする民衆が支配的な政治勢力の一つとなることが予見された段階で、ブルジョアジーを担い手として登場した立憲君主制のイデオロギーである。これはわが国では、戦前、美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説として知られた。それは、一方で、君主が統治権の所有者として統治権を総攬(そうらん)する絶対王制を阻止すると同時に、国民(人民)を統治権の所有者とする民衆の意思による政治の実現を阻むものであった。
 現在の学界の大勢は、あるいは国家法人説の歴史的役割の終了を宣言し、あるいは国家法人説においても、国家の統治意思の内容をだれが最終的に決めるかという問題が残るとして、この学説に批判的である。しかし、国家法人説が国家の統一性を説明することに優れ、憲法学上の思考に影響を及ぼしていることは否めない。近年、フランスの主権理論の立場から国家概念を規定し、国家法人説を克服しようとする動きがある。[糠塚康江]