ハイデガー「黒ノート」についての三島の文章の紹介

 


三島憲一「ハイデガーの『黒ノート』をめぐって ――反ユダヤ主義と現実感覚の喪失」を読む - ルルドの泉で

三島憲一「ハイデガーの『黒ノート』をめぐって ――反ユダヤ主義と現実感覚の喪失」を読む

 「ハイデガーナチズム」を巡る議論に新たな波紋を投げかけているのが、今年2月と3月にようやく刊行された彼の断章集、通称『黒ノート』(Schwarze Hefte)だ。ハイデガーは1931年以降、死の直前にいたるまで『黒ノート』と言われる断章を書き綴っていた。

 ノートは全部で34~36冊*1。大部分はマールバッハのドイツ文学資料館に保存されている。今回は1931~1941年ぐらいまでの十四冊ぶん、総計1300ページが三巻にわけて刊行された。

 

 黒ノートが物議を醸しているのは、今回の千三百ページのなかに数カ所だが、「反ユダヤ主義的な」表現や主張が彼独自の用語と密接に関連して記されていたことである。

 言うまでもなく、ハイデガーナチズム、またはハイデガー反ユダヤ主義との関係について、このノートが新たに何を語ってくれるのかが世界で注目されているわけだ。

 

 しかし黒ノートに関して、日本語で読めるまとまった紹介は今まで存在しなかった。

 ありがたいことに、ドイツ哲学者の三島憲一みすず書房の『月刊みすず 7月号』に「ハイデガーの『黒ノート』をめぐって ――反ユダヤ主義と現実感覚の喪失」を寄稿している。本記事ではこれを紹介する。

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 先日、『黒ノート』を論じたジャン=リュック・ナンシーの「ハイデガーとわれわれ」を翻訳してくれた方を見つけたので、こちらも参照。

ジャン=リュック・ナンシー「ハイデガーとわれわれ」(2014) - dans un coin quelconque de ce qui est

 

ハイデガー哲学と反ユダヤ主義

 ハイデガーは『存在と時間』から思索を深めるうち、全世界を覆う現代技術文明の哲学的批判へとしだいに関心を移していく。この技術論は、彼のコミットしたナチズムや、隠された反ユダヤ主義とどう関わっているのか?

 ハイデガーは、彼が頻繁に「巨大なもの」と呼ぶ現代技術を批判し、それとは「別の新たな始まり」を目指すつもりだったようだ。

「巨大なものの最も秘匿されたありよう、ひょっとして最古のありようは、計算高く、ずるがしこく、札を巧みに混ぜて切り返すしぶとい狡猾さだ。これを通じてユダヤ人たちによる、世界を持たないあり方Weltlosigkeitが創出されたのだ。」

 ここでは「ユダヤ人はずるい、狡猾だ」といった月並みなステレオタイプが確認できる。ユダヤ人たちは巨大なもの、現代技術の隠れたありようを用いて世界を持たないあり方Weltlosigkeitを創出する。どういうことだろうか。

 

 三島によると、ハイデガーは、市民社会の教養とその文化、それらと表裏一体の技術を、近代形而上学の産物と思っていた。ハイデガーはそんな「読書によるお教養」主義が嫌いでもある。また、ニーチェのひそみにならって、それらはプラトン以来の西欧形而上学の延長でもあると考えていた。

 そうした形而上学は、ソクラテスプラトン以前の、例えばヘラクレイトスなどのギリシアの始源的哲学からの退落であり、なにもないところに神や人間というご立派な存在者を措定しただけで、本質はニヒリズムであるとした。

 

 「プラトンから近代形而上学を経て科学技術へ、そして潜在的なニヒリズムが顕在化する」という連続性の物語。この線上で近代形而上学と現代技術、およびニヒリズムがつながる。とにかくもこのハイデガーの物語、ドグマこそ彼の後期のいわゆるの存在史の核である。

 ユダヤ人は西欧近代の形而上学に住み込むことで、このニヒリズムに加担してきたということだろう。

 

「おなじ理由から、どんな<平和主義>も<リベラリズム>も、本質的な決断の領野にまで突き進むことはできない。なぜなら、そうしたものは、純粋の、また不純の戦士精神の対抗者になるのが、せいぜいだからだ。

だがユダヤ人たち(Judentum)が一時的に権力を高める理由は、西欧の形而上学が、 特にその近代的な発展形態[経済と技術の世界、ということであろう]が、空疎な合理性と計算根性の拡大の場を提供していることに理由がある。こうした合理 性や計算根性は、このようにして<精神>のうちに居所を作ってしまうが、決断のための隠された領野をみずから据えることはできない。将来の決 断と問いがより根源的かつ始源的になるにつれて、この<人種>には手の届かないものとなる」

 

 現代のいわゆる「反グローバリズム」とそれを支える人種主義、民族主義について示唆的な箇所もある。

ユダヤ人たち(die Juden)は、彼らの特にそれに集中した計算的才能のゆえに、最も長きにわたって人種原則にしたがって<棲息leben>してきている。それだけ彼らは、その人種原則の無制限な適用に対して最も激しく抵抗するのだ。

人種に即した育成制度の設営は[大学や企業や演劇やジャーナリズムのような優秀なユダヤ人 がのし上がって行ける現代の制度のことだろう]、<生>そのものに発しているのではなく、作為Machenschaftが生を乗っ取って押さ え込んだためである。作為がこうした計画性を通じて推し進めているのは、諸民族の完全なる脱人種化Entrassung[こんなドイツ語の単語はもちろん ない]である。

いっさいの存在者を、画一的に作られた、同じような切り口の制度のなかに押しこむことによる脱人種化である。脱人種化とともに諸民族の単一化へ向けた自己疎外が、――歴史の喪失が――、つまり、そんざいSeynへ向けた決断の場であるはずの諸民族の自己疎外が起きる」

 「作為Machenschaft」は、普通複数で使われ裏の取引や悪巧みや策動を揶揄する時に使う単語だそうだ。後期ハイデガーでは、道具的理性とその巨大な構築物の意味で、多くの場合抽象化を示すために単数で使われる。

 「機械文明が画一化をもたらす」というのは、キルケゴールニーチェ以来おなじみの、ドイツ教養市民階級の文明批判だそうだ。「この文章で特異なのは、そこに人種原理に生きながら、結果として脱人種化を推し進めるユダヤ人が住みついている、というところにある」。

 ハイデガーが対決したのは、「近代という枠組み」だ。現状を批判し革命を求める者にとって、人種、民族を支柱にする選択もまたありふれている。今さら「ハイデガーにならないためにハイデガーを読みましょう」と言う意義もあまりないだろうか。

 

ハイデガーの反ユダヤ的思索の妥当性

 ところで、こうしたハイデガーの哲学的な思弁と結合した反ユダヤ的思索には、倫理的批判を抜きにするとどのくらいの妥当性があるのだろう?

 ハイデガーの状況判断能力を疑わせる「電波」なエピソードを三島が紹介している。まずそのエピソードと関連する黒ノートの箇所から。

「世界ユダヤ人 組織Weltjudentumは、ドイツから追い出された亡命者たちに煽りたてられて、つかみどころのないかたちでいたるところにいる。そして、力を拡大 しながらも、どこでも戦闘行為に加わる必要がない。ところが、われわれに残されているのは、自らの民族の最良の人々の最良の血を犠牲にすることである」

「世界ユダヤ人組織Weltjudentum」は、偽書『シオンの賢者の議定書』以来、ユダヤ人陰謀説の語彙であり、ヒトラーが『我が闘争』で「反人種Gegenrasse」と定義し、演説でもよく使った。三島は、ドイツ人の若者が戦場で血を流しているのに、ユダヤ人は後方でちゃっかりとうまい汁を吸っている、的に解釈している。

 この解釈に従うと、当時の典型的な反ユダヤ主義の文句でしかない。もっと脱力させるエピソードを三島は紹介している。

シオンの賢者と言えば、ナチスの政権獲得後にヤスパースハイデガーに、この書を「愚劣そのもの」と言ったところ、ハイデガーは「だってやはり、ユダヤ人の危険な国際的結びつきがあるじゃないですか」と答えたそうである。

 

 「二十世紀最大の哲学者」と称される人物とは思えないほど、あっさりデマ情報に踊らされている。他にも『黒ノート』には、哲学的中二病を患った者の病態が散見される。まさに「黒歴史のノート」である。

「ドイツ人だけが存在を根源的に新たに歌い、語ることができる。ドイツ人だけがテオリアの本質を新しく征服し、ついには、論理学を創出できる」

 「技術の最後の幕は、この地球が自らを爆砕することにある。そして現在の人類が滅びることにある。これは不幸でもなんでもない。それどころか、存在者の優位によって深く汚染されている状態からの、存在の(des Seins)浄化なのだ」 

 

 ハイデガーは精神治療に罹っていたそうだ。相当まいっていたのかもしれない。

 下段の文章が書かれた1941年、ナチスの死の工場が動いていた。フライブルグからもユダヤ人が消え、1938年にはフライブルグのシナゴーグが炎上していた。三島は「こうしたことも、「不幸ではない」のだろう」と皮肉っている。

 

 三島は1300ページの『黒ノート』読解が相当退屈だったらしく、「それにしても、この『黒ノート』の真正反ユダヤ主義のずさんさはなんなのだろう」「ばかばかしくて読んでいられない」「ドイツの崩壊と恋愛沙汰のなかで筋道立てた思考ができなくなっていたのだろうか」と終始手厳しい。

 三島の「沈黙の奥に秘めた形而上学ユダヤ人=その世界支配という方程式は、二十世紀最高の哲学者という勲章を剥奪するにはあたいしよう」はよくある評価としても、「まず書いてあることは、意外と月並みな哲学者なのではないかという疑念を引き起こす」から始まる文体批判は、いわゆる「知の欺瞞」「グル効果」など「ポストモダン・フランス現代思想」批判の文脈にある。

「…そう見ると『存在と時間』ですらそうではないかとも思えてくる。特に後半の卓抜な一部を別にすれば、文章の魔術を抜きにすると(文体の独自性はたいしたものだ)、部分的にそうとしか思えなくなってくる。「死ぬのは一人、自分だけだ」。それはそうだろう。」

 

ハイデガーの弁護

 それはそれとして、これまでの紹介はあまりにハイデガーに厳しかった。釈明の余地もいくつかある。

 まず第一に、ハイデガーはこういった、ナチス支配下のドイツ社会でウケそうな反ユダヤ主義の主張を私的なノートにだけとどめ、発表しなかった。当局に気に入られたいのなら、新聞に書けばいいのに。「ハイデガーは、反ユダヤ的な言説を公式に述べたことはない。」 彼は何を考えていたのか?

 第二に、「世界ユダヤ人集団に関する問いは、人種的問いではない。人間というもののあり方に関する形而上学的な問いなのだ。」と述べていることから、(さっきのユダヤ人種批判との整合性は不明だが)ナチスの生物学主義からは距離があったことを示すかもしれない。(しかし、それは逆に彼の哲学と反ユダヤ主義が密接な関係にあるという諸刃の剣でもある。)

 これらについては専門家による解明が待たれる。

 

私の感想

 ハイデガーの技術論は、技術論と反ユダヤ主義との内的結合が明らかになったことで、全部ダメになってしまうのだろうか?専門家の解明を待つしかない。

ある分野で頭のいい人間は他方ではどこか偏っていて、ゲーデルのように妄想に生きているものだが、ハイデガーのように専門分野まで電波に冒された場合はどうなるのだろう。

 

 おまけ

 『黒ノート』36冊のうち2冊を、ハイデガーと不倫していた「とてつもなく美しかったらしい」弁護士、ドロテア・ヴィエッタの息子でドイツ文学の教授シルビオ・ヴィエッタが保管しており、今なお買い取り交渉中だ。

ドロテアの遺品のなかに、ハイデガーが愛の日々に彼女に送った『黒ノート』の二冊があった。息子のシルビオ教授はどんな気持ちなんだろ…。

*1:冊数が定まらないことにはわけがある。最後の「おまけ」で説明