マッシモ・カッチャーリ・インタヴュー「必要なものから自由であること」

 


SITE ZERO | マッシモ・カッチャーリ・インタヴュー「必要なものから自由であること──家なし(a-oikos)の形而上学」|インタヴュー/訳=阿部真弓

 

マッシモ・カッチャーリ・インタヴュー「必要なものから自由であること──家なし(a-oikos)の形而上学」|インタヴュー/訳=阿部真弓 2006年07月26日

ヴェネツィア、港、この意地悪な天使たちの窓

「必要なものから自由であること──家なし(a-oikos)の形而上学」|阿部真弓

フィリップ・ソレルスの『ヴェニス──愛の辞典』(Plon、2004)のページを捲ろう。フリードリッヒ・ニーチェで終わる「N」の項目と、アン リ・ド・レニエから始まる「R」の項目に挟まれた「P」の項目に、5つの名が収められている。Palais ducal(ヴェネツィアサン・マルコ広場に位置する「総督宮殿」)、Palladio(16世紀の建築家、アンドレア・パラディーオ)、 Pleynet Marcelin(20世紀フランスの美術評論家、マルスラン・プレイネ)、Pound Ezra(ヴェニスに没した詩人、エズラ・パウンド)、Proust Marcel(小説家、マルセル・プルースト、1899年と1900年の2度に渡って、ヴェネツィアを旅した)。『ヴェニスの祝祭』の著者ソレルス曰く、 「プルーストの人生と『失われた時を求めて』のすべての道は、ヴェニスへと至る。このようにセレニッシマは、この言葉でできたモニュメントの主要人物なの である。幼年期とは真の時間であり、数々の情熱とは失われた時の必要な経験であり、ヴェニスとは見出された時である。小説のタイトルは『真のヴェニスを求 めて』でありえたかもしれない」(『辞典』より)。

電子辞書や小さな「窓」の中に、人名から歴史もイメージをも探ることが可能な時代に、ヴェネツィア日誌や「イタリア紀行」に限らず、旅行記やありと あらゆる「回想」の類を紐解き、といって誰かに伝えることなく、暫しただ読むことを悦びにしようとするとしたら、さまざまな「名」が、他者の時間と記憶の 中で得る意味の密かなweb、つまり、他なる逆転と認知、圧縮、再生等々のうちに「生きられた」過程を知りたくて、であるだろう。それは、いまという 「時」のうちに、再びであれ初めてであれ、わたくしたち自身が、それらの名や場所を見出すまでの「刹那」である、あるいは「想起」の瞬間を迂回しつつ待機 する、いわば「経験」を前提とした読書の時間である。逆説的にそれは、記憶を、そして書物たちを待機させておく時間なのだ。
 

阿部──記憶のなかからわれわれに呼びかけてくるものから、いかにして抜け出すことができるのか、という切実な問いであり……

カッチャーリ──過去とは、そこにある何か、われわれの前に、あるいは良くてもわれわれの背後にある何か、として生きられるのであってはならない。過去こそは、われわれなのである。(32─34頁)


しかし、コルク張りの部屋に閉じこもって書き続けていた、20世紀初めのマルセル青年とは、もしかしたら、21世紀的「ひきこもり」的棲まいようの、ある いは、絶え間なく日々「更新」されて、室内の「窓」から別の室内の「窓」へと届くblogやmailとその生態圏を先駆けるものであったかもしれない、な どという気がしてくるのは、何故だろう。わたくしたちによって生きられる「必要なもの」が、いずれの時かには、記されたがるものらしいこと、あるいは「イ メージ」として姿を留めようと強く望むものらしい、ということには変わりはないのだが、そうしたイメージや言葉、「視覚的なもの」やそれら諸々の副産物 は、今やこうして必ずと言っていいほど、この小さな「窓」に届くもの、しばしば待機をも経ずに届くものらしい。ならば、わたくしたちの時代の「経験」はこ れから、いったいどこに「印」される、しばしばかくも慌てて、つかの間も失われることなくいかにして再び、見出されようとしているのだろう? 


カッチャーリ──こういうわけで、ここでは、ヴェネツィアのこうした次元のすべてが、再発見されるべきである。そうです、あたかもプルーストを驚かせたものを「再び見出す」ようにして、再発見されなければならない。(61頁)


1944年に、哲学者マッシモ・カッチャーリが生まれ、2005年の春から、現在新たに3度目の市長職を務める、イタリアの都市ヴェネツィアは、島であり 港であり、陸地の工業地帯メストレと連繋し、観光客や貿易の貨物とともに、時間や過去が、さまざまな名が届く特権的な土地であり、と同時に、人々が多くの 「必要なもの」をこそ失うようにと企図された、歴史的に、放蕩のための水辺の都市である。きわめて自明なこととは、そこでは失うことが可能である、という ことではなかったか。


阿部──「意地悪な天使都市(アンジェロポリ)」という語も、よく使われますね。

カッチャーリ──天使たちは、至る処で、瞬間的に移動する。それでいて、彼らは常に平穏で、落ち着いて、静かである。これが「意地悪な天使都市(ア ンジェロポリ)」、つまり、都市の「悪い」イデアです。都市は、むしろこれとは反対に、それ自体の諸矛盾を組織できるのでなくてはならない。(63頁)


果たして、毎日前にするこの「窓」、「潜在的」ノマドたちが、仮面をかぶって行き来interする窓=顔faceもまた、「港」であり、見知らぬものがふ と漂流して着く、小さな「島」であるだろうか? つまり、ここで、この「なかIn」で、「必要なもの」を求めたり、真に失ったりすることは、いったい可能 なのだろうか? ここに距離は存在するのか? ここには、この「奥」の海には、空ろな「間」しかないのか(それともこれは、ただのTransit)? 万 の名に、万物に、万事へと向かって開かれたかのようである、この「窓」が、失われた「必要なもの」が見出される場所、あるいは「見出される時」そのものに なる、そんな「意地悪な天使」の時は、来るのだろうか、すでに来ているのだろうか。「必要なもの」とは、かつてないほど、ここで交わされる言葉そのものと なっているのだろうか。万が一「ここ」に、わたくしたちや子供たちの「幼年期」までもが、「見出され」ようとしているとしたら、それは大変なこと、である ように思われる。だがそれもまた楽しい危機となるのかどうか。


カッチャーリ──幼年期は、諸事物とわたしたちとの関係のなかに、常に住んでいるのです。そうではないでしょうか? (…中略…)しかし言説もまた、そう であるがままの無媒介性を欲している。それは無媒介性から、あるいはそう呼びたいのであれば、幼年期から、生成されるのです。(042頁)


0号に掲載のインタヴュー「必要なものから自由であること──家なし(a-oikos)の形而上学」は、2005年のヴェネツィアで行なわれたダイアロー グである。対話の構成を、digital録音に収められた「声」から起こして、ほぼそのままに記録し翻訳した。多様な問い、謎、知へと誘われる「好奇心」 に導かれるがまま、カッチャーリ氏の数多くの著作、1960年代のルカーチをめぐるエッセーから始まって、『スタインホーフより』『法のイコン』『群 島』、2004年の大著『究極のものについて』に至るまでを、聞き手の関心に重心をおいて偏向しつつ「通過」しゆく遣り取りとなっている。


阿部──大文字で記されるこの「ここ(Qui)」とは、一体何なのでしょうか?(40頁)


インタヴューは、2005年の7月と11月の2度に渡って行なわれた。2つの対話のいずれもが、「必要なもの」とわれわれの「自由」との「類推的」関係、 という根源的なテーマ──「必要なもの」とはたとえば、「幼年期」であり、「愛」であり、「家Casa/Oikos」であり、時にはまさしく Oikonomia/Economyそのものであり、わたくしたちが「無媒介的」に享受するほかないもの、そして、わたくしたちが「媒介」=「言語」のう ちに運びこもうと、常に試みることになる「ものCosa」──の周りを廻りつづけている。カッチャーリが、彼の永遠の「アルケー」であるほかない「過去」 へ、「はじまり」へと遡行しつつ、何を問題として思考し続けてきたのか、掴もうとした営みを、断片的に示す記録であると言えるだろうか。無償のものである べき「歓待」の間に、他者であり異国人であるその人とinter眦を向き合わせてview行なわれた、長い問いの時間から成り、短くはない応答を収めたテ クストである。対話が真に生起した「場所」をいくらかでも再現しようと、編集の飯尾次郎氏と選んだ、十数点のイメージとともに、紙上に「形式」を見出す。


阿部──そう、ベンヤミンの「弁証法的イメージ」という語を、どのように解釈されていますか。

カッチャーリ──そう、「歴史哲学テーゼ」(1940)のなかで、ベンヤミンは、彼の弁証法を想像することを試みています。(58─59頁)


さて、一連の問いと応答そのものは、インタヴュー・ページに収められており、紙に触れて読んでいただければ幸いである。ここでは、2002年のカッチャー リ氏来日が、2000年の州知事選落選によってもたらされた「幸運」であったという奇妙な(すでに歴史的な)経緯と、東京大学田中純氏の非常な実現力に おいて可能となったものであったことを、あらためて思い出しておきたい。そして、2002年から2005年の間には、2005年春にヴェネツィア桂離宮 とタウトについて)とコモ(テラーニのダンテウムについて)で講演された折りに、 ルイージ・ノーノ家でのカッチャーリとの最初の出会いについて語って下さった磯崎新氏、大阪、ボローニャ、フィレンツエでお話をうかがうことが叶った岡田 温司先生らと浅田彰氏との歓談、ヴェネツィアの街の人々、ヴェネツィア建築大学において現在も「タフーリ・スクール」で学ぶ若き建築史家の友人たちとの議 論、母・与謝野文子との日々の会話など、記録された「西欧との対話」のこちら側には、記録されぬ無数の必要な対話の常にあったことも付記しておこう。

文庫本よりもやや大きいサイズで、チョコレート箱のような形をした紙の媒体となる新雑誌『SITE ZERO/ZERO SITE』が、対話を恐れず、好奇心に満ちてイデアを想像する同時代の人々にとって、「必要なもの」となることを願う。このSiteは、果たして「ここ」 は、優しい天使たちが棲み、必要なる友情が、必要であるがゆえ、それを失ったり忘れたり、つまり、それら「から自由になる」ことをも許すような「場」とな りえるのだろうか。

フィレンツェ、2006年7月1日]