アガンベン「市民権から生体認証へ」

 

1401biometriques

民主主義を変異させる安全への脅迫観念

 

市民権から生体認証へ

 

ジョルジョ・アガンベン

(哲学者)

『中味のない人間』(人文書院、2002年)など著書多数

Giorgio Agamben, L'Homme sans contenu, Circé, Belval (Vosges), 2013.

 

訳:上原秀一

 


 

 2013年12月19日にフランスで公布された軍事計画法の第20条においては、デジタル情報の全面的な監視が認められている。このため、同法 は、「フランス版愛国者法」とも呼ばれている。安全という至上命令は、絶対的な優先課題を自任してきた。政府転覆や「テロ」など口実は様々に変わってきた が、目指されてきたのはただ一つ、人口の統治である。その起源を理解してそこから逃れるためには、18世紀までさかのぼる必要がある。[フランス語版編集 部]



 


 


安全概念の起源――例外状態か近代経済学か

 「安全上の理由により」(英語で「for security reasons」、イタリア語で「per ragioni di sicurezza」)という決まり文句は、有無を言わさぬ論拠として使われる。この決まり文句を使えば、さっさと議論を切り上げて、普通なら受け入れら れないような見方ややり方を押しつけることができる。この決まり文句に一つの概念分析をぶつけてみなければならない。人畜無害なふりをして、まったく別の 政治的な観念からその地位をかすめ取ってしまった概念の分析である。安全(sécurité)という概念である。

 安全政策の目的は、ただ単に危険や紛争、あるいは災害を予防することでしかないと考えることもできるだろう。実際、ある種の概念史によるならば、 安全概念の起源を古代ローマの「Salus publica suprema lex」(「人民の救済(salut)が最高の法である」)というラテン語の言い回しにまでさかのぼることになり、ゆえに、この概念を例外状態という枠組 みの中に位置づけることになる。例えば、古代ローマの「senatus consultum ultimum[元老院非常事態宣言――訳注]」や独裁官(注1)のことを考えてみるとよい。あるいは、「Necessitas non habet legem」(「緊急時に法はない」)という教会法の原則やフランス革命期の公安委員会(comités de salut public)(注2)のことを考えてみるとよい。共和暦8年憲法(1799年)は「国家の安寧(sûreté)を脅かしかねない紛争」に触れているし、 また、国家社会主義体制の法的根拠となったワイマール憲法(1919年)第48条は「公共の安全」に言及している。

 このような概念史は、妥当なものではあるけれども、現代の安全対策を理解するのには役立たない。例外措置というものは、直接的で現実的な脅威をな くすために、一時的に法の保障を中断するものである。今日言われる「安全上の理由」は、これとは反対に、常時用いられる通常の統治技術の一部をなしてい る。

 ミシェル・フーコー(注3)は、現代の安全概念の起源は、例外状態に求めるよりも、近代経済学の出発点に位置するケネー(1694~1774年) と重農主義者(注4)に求めた方がよいと言っている。確かに、ウェストファリア条約(注5)の締結直後に、強大な絶対主義諸国の言説の中に、君主は臣民の 安全に留意すべきであるという思想が入っていった。しかし、安全――あるいはむしろ「安寧」――が統治学説の中心概念となるには、ケネーを待たねばならな かった。


紛争を予防するのか、それとも良い方向に誘導するのか?

 ケネーが『百科全書』に寄稿した「穀物」の項は、2世紀半を経た今日の統治様式を理解する上でも不可欠なものであり続けている。もっともヴォル テールならさらに次のように言うかも知れないが。すなわち、この文章が出版されると、パリの人々は経済と農業について語り合うために演劇と文学について議 論するのをやめてしまった、と。

 当時、各国政府が対処しなければならなかった重要課題の一つに、凶作と飢饉の問題があった。ケネー以前には、各国政府は、凶作と飢饉を予防するために、 公営備蓄庫を設けたり穀物の輸出を禁止したりしていた。しかし、こうした措置は、生産にはマイナスに働いた。ケネーの思想は、逆転の発想であった。飢饉を 予防しようとするのをやめて、発生するがままにしておくべきだというのである。内外の交易を自由化しておいて、飢饉は発生してから統御 (gouverner)すればよいという考えである。「統御(gouverner)」という言葉は、ここでは「舵(gouvernail)を取る」という 語源どおりの意味で使われている。良き操舵士は、嵐を避けることはできないが、嵐の中で船を導くことができなければならないのである。

 

 ケネーが書き残したわけでもないのに彼のものとされている決まり文句がある。「レッセフェール(なすに任せよ)」である。この言葉も上の意味で理 解しなければならない。この言葉は、単なる経済的自由主義の標語では決してない。統治(gouvernement)に関する新しい考え方を示す言葉であ る。安全というもの――ケネーは、「小作人と富裕農の安寧」と言っている――を、紛争や災害の予防の中にではなく、紛争や災害を良い方向に誘導する力の中 に位置づけようとする考え方である。

 このような逆転の発想がどれほど哲学的に重大だったのかを考えてみなければならない。この発想は、伝統的に認められてきた原因と結果の間の上下関 係を逆転させたのである。原因を統御しようとするのは、無駄だし、そうでなくてもコストがかかり過ぎる。結果を統御しようとする方が有益で確実である。こ の原則の重要性を軽く見てはならない。この原則は、現在の我々の社会を支配している。経済から環境保護まで、外交・防衛政策から治安・警察に関する内政ま でを支配しているのである。そしてまた、この原則によって、経済における完全な自由主義と前例のない規模の安全管理とが一致結束しているのはなぜか、とい うもう一つの謎を理解することができる。

 このように一見矛盾した関係について説明するために、二つの例を挙げよう。まず、飲料水の例である。飲料水が近いうちに地上の大部分で不足するよ うになるということはよく知られている。しかし、飲料水の浪費を防ぐための政策を真剣に講じている国はない。反対に、我々は、汚染水を浄化するための技術 や工場が世界中で発展・増加しつつあるのを目の当たりにしている。巨大な市場が形成されつつあるのだ。

 次に、バイオメトリクス(生体認証)のことを考えてみよう。これは、今日の安全技術の中で最も憂慮すべきものの一つである。バイオメトリクスは、 フランスで19世紀後半に誕生した。犯罪学者のアルフォンス・ベルティヨン(1853~1914年)は、犯罪者の写真と身体測定値に基づいて「口述ポート レート」を考案した。「口述ポートレート」は、規格化した語彙を用いて犯罪者一人一人を犯罪者カードに記載する方法である。その少し後に、イギリスでは、 ダーウィンの従弟でベルティヨンの熱心な信奉者であったフランシス・ゴールトン(1822~1911年)が、指紋認証技術を開発した。これらの技法を使っ ても、当然、犯罪を予防することはできない。再犯者を追い詰めることができるだけである。ここでも我々は、安全に関する重農主義者風の考え方を見出すこと になる。国家は、犯罪が起こった後でしか効果的に介入することはできない、という考え方である。

 人体計測技術は、軽犯罪再犯者と外国人のために考案されたもので、長い間、彼ら専用のものだった。米連邦議会は、1943年になってもまだ、「住 民識別法案(Citizen Identification Act)」を否決していた。この法案は、すべての住民に指紋入りのIDカードを持たせようとするものであった。指紋入りIDカードが普及したのは、20世 紀後半になってからである。そして、最後の一歩を踏み出したのはつい最近のことである。指紋や虹彩を瞬時に認証できる光学読み取り機器の力によって、バイ オメトリクスの仕組みが警察署から外に出て日常生活の中に浸透するようになったのだ。一部の国では、学校のランチルームへの子供の出入りを光学読み取り装 置で管理するところまで行っている。子供は何も考えずにその装置の上に手を置くのである。

 権力が住民のバイオメトリクス情報と遺伝情報を手に入れて、絶対的で無制限な管理をするようになることについて、その危険性に注意を促す声が上 がっている。このような情報があれば、ユダヤ人の絶滅計画は(あるいはそれ以外の想像可能な範囲のいかなる大量虐殺も)、比類なき効果を持つ資料に基づい て、完璧かつ迅速に遂行されていたことだろう。今日のヨーロッパ諸国における安全法制は、ある面では20世紀のファシズム国家よりもずっと厳しいものに なっている。イタリアでは、ムッソリーニ政権下の1926年に制定された「公安についての法規に関する統一法典(Testo unico delle leggi di pubblica sicurezza, Tulsp)」が、現在でも大筋で有効である。しかし、[爆弾や銃によるテロ事件が相次いだ――訳注]「鉛の時代」(1968年から1980年代初頭ま で)にテロ対策のための法律が複数制定され、それによってこの法典に含まれていた権利保障が制限されることとなった。フランスにおけるテロ対策法制はイタ リアのものよりもさらに厳格であるのだから、ファシズム期の法制と比べても結果はさほど変わらないだろう。

 安全対策の急激な増加が物語っているのは、政治に関する概念の体系が変化しつつあるということである。あまりに大きな変化なので、次のように自問 自答するのが当たり前になっている。我々が生きている社会はもはや民主的な社会とは呼び得ないものなのではないか、いやそれだけではない、そもそも政治的 な社会とさえ見なし得ないものなのではないか、と。

 歴史学者のクリスチャン・マイヤーが指摘したように、政治に関する思考様式は、紀元前5世紀の古代ギリシアにおいて大きな変貌を遂げた。住民の政 治化(ドイツ語で「Politisierung」)が起こったのである。それまでは、都市国家(ポリス)への帰属の仕方は、地位や立場によって左右されて いた。貴族と文化共同体構成員、農民と商人、支配者と庇護民、家長と親といった地位や立場である。これが変化して、政治的な市民権を行使するかどうかで社 会的なアイデンティティが決まるようになったのである。マイヤーは、「こうして古代ギリシアに固有の政治的アイデンティティが作り出された。その中で、個 人は市民として行動すべきだという思想に、制度的な形式が与えられたのである。経済的な共同体や宗教的な共同体からなる集団への帰属は、副次的な位置に追 いやられた。民主国家の市民は、政治生活に身を捧げる程度に応じて、彼自身がポリスの構成員として認められるようになった。ポリスとポリテイア(都市国家 と市民権)は、相互に規定しあうようになった。こうして、市民権は、ポリス(都市国家)がオイコス(家庭)と明確に切り離された領域として形成されるため に必要な活動や生活様式になったのである。政治は自由な公的空間になり、必要性が支配する私的空間とは性質上対立するものとなった」(注6)と述べてい る。マイヤーによれば、こうした古代ギリシアに固有の政治化のプロセスが、その後の西洋社会の政治に継承されていった。西洋社会の政治においては、浮き沈 みはありつつも、市民権が決定的な要素であり続けた。

 しかし、まさにこの市民権という要素が、次第に逆方向のプロセスへと引きずり込まれていっている。非政治化のプロセスである。市民権は、かつては 他に還元しえない政治化の能動的な端緒であったが、今やまったく受動的な条件になってしまった。そこでは、行動するかしないかの区別も、公と私の区別も、 曖昧になり混ざり合ってしまう。日常的活動や生活様式の中で具体化されていた市民権は、今後は単なる法律上の地位へと、あるいは世論調査に次第に似通って いく投票権の行使へと矮小化されていくことになる。

 非政治化のプロセスにおいて決定的な役割を果たしたのが安全対策である。以前は犯罪者に限られていた人体識別技術が徐々に住民全体に拡大されて いったことにより、政治的アイデンティティも避けがたい影響を受けている。人類史上初めて、アイデンティティは、社会的「人格」やその承認によって、ある いは「名前」や「名声」によって決まるのではなく、主体とは一切の関係を持ち得ない生物学的データによって決まるようになった。インクの付いた親指が紙の 上に残す奇抜な唐草模様やDNAの二重らせん構造の中にある遺伝子配列などの生物学的データである。こうして、最も中立的で最も私的な事実が社会的アイデ ンティティの媒体となり、社会的アイデンティティからは公的な性質が消し去られたのである。

 自分の意志にまったく属さない生物学的基準が自分のアイデンティティを決定するのならば、政治的アイデンティティの構成も疑わしいものとなる。 我々は、自分の指紋や遺伝暗号とどのような関係を結ぶことができるというのだろうか。我々が慣れ親しんできた倫理と政治の空間は、その意味を失い、徹底的 に考え直されなければならなくなっている。古代ギリシアの市民は、私と公の対立、すなわち家庭(再生産の場)と都市(政治の場)との対立によって規定され ていたが、現代の市民はむしろ公私が未分化な場所を動き回っているように見える。あるいは、ホッブズの言葉を借りれば、政治体と自然体との間の未分化な場 所を動き回っているように見える。


刑務所から市街地へと広がる監視カメラ

 こうした未分化状態は、我々の市街地に存在する監視カメラへと具体化されている。この装置は、指紋認証と同じ運命を辿った。刑務所のために考案さ れたものが、次第に公的な場に広がっていったのである。監視カメラのある空間は、もはやアゴラ[古代ギリシアの広場――訳注]とは言えない。そこには公的 な性格が一切ない。それは、公と私の間のグレーゾーンであり、刑務所とフォーラム[古代ローマの広場――訳注]の間のグレーゾーンである。このような転換 は、多種多様な原因によって引き起こされた。多種多様な原因の中でも特別な地位を占めているのは、近代権力の生政治への変動である。生政治においては、も はや領土内で主権を行使することが重要なのではなく、個人の生物学的生(健康、生殖能力、セクシュアリティーなど)を統治(gouverner)すること が重要になる。生物学的生の観念が政治の中心に移動したという事実によって、政治的アイデンティティに対する身体的アイデンティティの優位性を説明するこ とができる。

 しかし、身体的アイデンティティが社会的アイデンティティよりも優位に立つ状況は、再犯者や危険人物を特定しようとする配慮によって生じたもので ある。我々はこのことを忘れるわけにはいくまい。だから、市民が、犯罪者のように扱われることを自己の活力として受け入れるようになったとしても、それは ほとんど驚くに値しない。国家が市民との間に結ぶ関係が、嫌疑付与や情報収集、管理統制という形をとったとしても、市民はそれを自明のこととして受け入れ るのである。ここで、危険を恐れずに、一つの原則が隠されていることを指摘しておかなければならない。「市民は、生きた存在である限り、誰もが潜在的なテ ロリストである」という原則である。しかし、このような原則によって支配されるならば、国家とはいったい何なのだろうか、社会とはいったい何なのだろう か。このような社会はいまだに民主的な社会と言いうるものなのだろうか、あるいはさらに政治的な社会と言いうるものなのだろうか。

 フーコーは、著書『監獄の誕生』(注7)やコレージュ・ド・フランスでの講義などを通じて、近代国家の類型学的分類法の概略を示した。彼によれ ば、アンシャンレジーム期における国家は、領土国家・主権国家と言えるものであった。その標語は「殺すかあるいは生きるに任せる」という言葉で表せるもの だった。これが次第に人口国家へと進展していく。人口国家においては、政治的な意味での人民に代わって人口学的な意味での人口が登場する。そしてさらに規 律国家へと進展していく。規律国家では、標語が「生かすかあるいは死ぬに任せる」という言葉へと反転する。規律国家は、健康で従順で秩序ある身体を作り出 すために臣民の生に気を配る国家である。

 現在のヨーロッパで我々が暮らしている国は、規律国家(Etat de discipline)ではない。むしろ、ジル・ドゥルーズの言い方に倣って「統制国家(Etat de contrôle)」と言うべきである。統制国家は、もはや秩序や規律を目指してはいない。管理し統制することを目指しているのだ。2001年7月のジェ ノヴァ・サミットに対するデモを暴力的に鎮圧した後に、イタリアのある警察官僚が次のように述べた。政府は、「警察が秩序を維持することを望んではない、 混乱を管理することを望んでいるのだ」と。彼は、そのつもりはなかったのかもしれないが、事の本質をうまく言い当てている。一方、アメリカの知識人たち は、9・11テロ以降の愛国者法(Patriot Act)(注8)と関連法による体質の変化について慎重に考察しようとしてきたが、彼らもやはり「安全国家(security state)」という言葉を口にしたがる。だが、ここでの「安全」とはどういう意味なのだろうか。

 フランス革命期を通じて、安全の概念――あるいは当時言われたように「安寧(sûreté)」の概念――は、警察の概念と絡み合っていた。 1791年3月16日の法律と1792年8月11日の法律によって、「安寧のための警察(police de sûreté)」というその後の近代社会に長く続く思想がフランスの法制に導入された。両法案の審議において、警察の語と安寧の語が互いに循環的に定義さ れていたのは明らかであるように思われる。アルマン・ジャンソネやマリー=ジャン・エロードセシェル、ジャック・ピエール・ブリッソといった議員たちは、 全員どちらの言葉も定義することができなかった。主に審議の対象とされたのは、警察と司法との関係であった。ジャンソネによれば、それらは「二つの完全に 区別された異なる権力」であった。しかしながら、司法権力の役割は明白であるのに、警察の役割は定義することができなかったようである。

 これらの国会議員の言説を分析すれば、警察の位置はまさに決定不能であって、そうあらざるを得ないのだということが分かる。なぜなら、仮に警察が 司法に組み込まれるならば、警察は存在することができなくなるだろうからである。これこそが、警察官の活動を現在もなお特徴付けている例の「評価の余地」 (注9)である。公共の安全を脅かす具体的な状況に対しては、警察官は権威者として行動することができるのである。そうしながらも、警察官は何かを決定を することはなく、誤解してよく言われるように裁判官による決定を準備するということもない。あらゆる決定には原因が前提となるが、警察官は結果に介入する のである。すなわち、決定不能なものに介入するのである。


政治的な生活が不可能に

 決定不能なものとは、17世紀のように「国家理性」と呼ばれるものではなく、「安全理性」と呼ばれるものである。だから、アメリカの知識人たちの 言う「安全国家(security state)」とは、警察国家のことである。しかし、警察(ポリス)という言葉の定義は、公法学説の中でブラックホールをなしている。18世紀に、フラン スではニコラ・ドラマールの『ポリス概論(Traité de la police)』が、ドイツではヨハン・ハインリッヒ・ゴットロープ・フォン・ユスティの『ポリス学原論(Grundsätze der Policey-Wissenschaft)』が出版された。このとき、ポリスという語は、ポリテイア(市民権)の語源としての意味に帰せられており、真 正の政治(ポリティーク)を意味する傾向にあった。「ポリティーク(政治)」という語のほうは、もっぱら対外的な政治を意味するものであった。フォン・ユ スティは、ポリティークをある国家と他の国々との間の関係という意味で用い、ポリツァイ[ドイツ語で警察を意味する――訳注]はある国家とその国家自体と の間の関係という意味で用いた。すなわち、「ポリスとは、ある国家とその国家自体との間の力関係である」と述べている。

 安全を旗印とすることによって、近代国家は、政治の領域を抜け出し、「ノーマンズ・ランド」へと入っていく。「ノーマンズ・ランド」では、その地 理も境界もよく把握できないし、また、それについての概念体系も欠けている。安全国家という名称を語源的にさかのぼると、心配の不在を意味するラテン語 (「securus」「sine cura」)に行き着く。しかし、この国家は、逆に我々にいっそうの不安をもたらすばかりである。民主主義に降りかかる危険に対する不安である。なぜな ら、安全国家においては、政治的な生活が不可能になるからである。そして、少なくとも我々の伝統においては、民主主義は政治的な生活と同義だからである。

 このような国家に直面している我々は、政治的対立という伝統的な戦略を見直さなければならなくなっている。安全という枠組みの中では、いかなる対 立も、権力を覆そうとするある程度の激しさをもったいかなる試みも、国家がその結果を統御して自らの利益を引き出すためのものになってしまい、我々はその 機会を与えてしまうことになる。これこそがまさに、テロと、これに対する国家の対応とを緊密に結びつける悪循環の弁証法が示すものである。近代的な政治の 伝統の中では、革命という形をとったラディカルな政治的変化が考えられてきた。革命は、新しく形成される秩序を「作り出す力(pouvoir constituant)」として働いていた。このようなモデルは放棄しなければならない。そして、むしろ、安全対策に取り込まれてしまわないような、ま た、暴力の悪循環の中に転落してしまわないような、「ただ単に地位を剥奪するだけの力」について考えなければならない。安全国家がもたらす反民主主義的な 流れを止めたいのであれば、我々は、基本的な政治問題として、このような「地位を剥奪する力(puissance destituante)」の形態と手段の問題を今後数年間かけて考えていかなければならない。




(1)古代ローマ共和国では、非常時には例外的に全権を独裁官(ディクタトル)に委任することができると規定されていた。

 

(2)国民公会が設置した公安委員会は、共和国を侵略と内戦の危機から防衛するためのものであった。

 

(3) Michel Foucault, Sécurité, territoire, population. Cours au Collège de France, 1977-1978, Gallimard - Seuil, coll. « Hautes études », Paris, 2004. ミシェル・フーコー(高桑和巳訳)『安全・領土・人口 : コレージュ・ド・フランス講義1977-1978年度』筑摩書房、2007年。

 

(4)重農主義者は、経済発展の基礎は農業にあるとし、商業と産業の自由を唱えた。

 

(5)ウェストファリア条約(1648年)は、カトリック教会が支持するハプスブルク家神聖ローマ帝国に属するプロテスタントのドイツ諸邦との間の三十年戦争を終結させた条約である。この条約によって、国民国家を基盤とするヨーロッパの秩序が形成された。

 

(6) Christian Meier, « Der Wandel der politisch-sozialen Begriffswelt im V Jahrhundert v.Chr. », dans Reinhart Koselleck (sous la dir. de), Historische Semantik und Begriffsgeschichte, Klett-Cotta, Stuttgart, 1979.

 

(7) Michel Foucault, Surveiller et punir, Gallimard, Paris, 1975. ミシェル・フーコー(田村俶訳)『監獄の誕生:監視と処罰』新潮社、1977年。

 

(8) Chase Madar, « Le président Obama, du prix Nobel aux drones », Le Monde diplomatique, octobre 2012を参照。

 

(9)「評価の余地(marge d'appréciation)」は、ヨーロッパ人権裁判所で用いられている概念で、人権条約の解釈・適用について各国に与えられた一定の裁量を意味す る。当初、緊急事態における国家の裁量を広く認め、国家の主張をほぼそのまま受け入れるために用いられていたが、非緊急事態の場合にまで拡張された。江島 晶子「ヨーロッパ人権裁判所における「評価の余地」理論の新たな発展」『明治大学大学院紀要 法学篇』第29集、1992年、55~73ページを参照。こ の場合は警察の裁量権のことを言う。[訳注]


Comment l’obsession sécuritaire fait muter la démocratie, par Giorgio Agamben (Le Monde diplomatique, janvier 2014)

Une citoyenneté réduite à des données biométriques

Comment l’obsession sécuritaire fait muter la démocratie

L’article 20 de la loi de programmation militaire, promulguée le 19 décembre, autorise une surveillance généralisée des données numériques, au point que l’on parle de « Patriot Act à la française ». Erigé en priorité absolue, l’impératif de sécurité change souvent de prétexte (subversion politique, « terrorisme ») mais conserve sa visée : gouverner les populations. Pour comprendre son origine et tenter de le déjouer, il faut remonter au XVIIIe siècle…

par Giorgio Agamben, janvier 2014

La formule « pour raisons de sécurité »  for security reasons », « per ragioni di sicurezza ») fonctionne comme un argument d’autorité qui, coupant court à toute discussion, permet d’imposer des perspectives et des mesures que l’on n’accepterait pas sans cela. Il faut lui opposer l’analyse d’un concept d’apparence anodine, mais qui semble avoir supplanté toute autre notion politique : la sécurité.

On pourrait penser que le but des politiques de sécurité est simplement de prévenir des dangers, des troubles, voire des catastrophes. Une certaine généalogie fait en effet remonter l’origine du concept au dicton romain Salus publica suprema lex Le salut du peuple est la loi suprême »), et l’inscrit ainsi dans le paradigme de l’état d’exception. Pensons au senatus consultum ultimum et à la dictature à Rome (1) ; au principe du droit canon selon lequel Necessitas non habet legem Nécessité n’a point de loi ») ; aux comités de salut public (2) pendant la Révolution française ; à la Constitution du 22 frimaire de l’an VIII (1799), évoquant les « troubles qui menaceraient la sûreté de l’Etat » ; ou encore à l’article 48 de la constitution de Weimar (1919), fondement juridique du régime national-socialiste, qui mentionnait également la « sécurité publique ».

Quoique correcte, cette généalogie ne permet pas de comprendre les dispositifs de sécurité contemporains. Les procédures d’exception visent une menace immédiate et réelle qu’il faut éliminer en suspendant pour un temps limité les garanties de la loi ; les « raisons de sécurité » dont on parle aujourd’hui constituent au contraire une technique de gouvernement normale et permanente.

Davantage que dans l’état d’exception, Michel Foucault (3) conseille de chercher l’origine de la sécurité contemporaine dans les débuts de l’économie moderne, chez François Quesnay (1694-1774) et les physiocrates (4). Si, peu après les traités de Westphalie (5), les grands Etats absolutistes ont introduit dans leur discours l’idée que le souverain devait veiller à la sécurité de ses sujets, il fallut attendre Quesnay pour que la sécurité — ou plutôt la « sûreté » — devienne le concept central de la doctrine du gouvernement.

Prévenir les troubles ou les canaliser ?

Son article consacré aux « Grains » dans l’Encyclopédie demeure, deux siècles et demi plus tard, indispensable pour comprendre le mode de gouvernement actuel. Voltaire dira d’ailleurs qu’une fois ce texte paru les Parisiens cessèrent de discuter de théâtre et de littérature pour parler d’économie et d’agriculture…

L’un des principaux problèmes que les gouvernements devaient alors affronter était celui des disettes et des famines. Jusqu’à Quesnay, ils essayaient de les prévenir en créant des greniers publics et en interdisant l’exportation de grains. Mais ces mesures préventives avaient des effets négatifs sur la production. L’idée de Quesnay fut de renverser le procédé : au lieu d’essayer de prévenir les famines, il fallait les laisser se produire et, par la libéralisation du commerce extérieur et intérieur, les gouverner une fois qu’elles s’étaient produites. « Gouverner » reprend ici son sens étymologique : un bon pilote — celui qui tient le gouvernail — ne peut pas éviter la tempête mais, si elle survient, il doit être capable de diriger son bateau.

C’est dans ce sens qu’il faut comprendre la formule qu’on attribue à Quesnay, mais qu’en vérité il n’a jamais écrite : « Laisser faire, laisser passer ». Loin d’être seulement la devise du libéralisme économique, elle désigne un paradigme de gouvernement, qui situe la sécurité — Quesnay évoque la « sûreté des fermiers et des laboureurs » — non pas dans la prévention des troubles et des désastres, mais dans la capacité à les canaliser dans une direction utile.

Il faut mesurer la portée philosophique de ce renversement qui bouleverse la traditionnelle relation hiérarchique entre les causes et les effets : puisqu’il est vain ou en tout cas coûteux de gouverner les causes, il est plus utile et plus sûr de gouverner les effets. L’importance de cet axiome n’est pas négligeable : il régit nos sociétés, de l’économie à l’écologie, de la politique étrangère et militaire jusqu’aux mesures internes de sécurité et de police. C’est également lui qui permet de comprendre la convergence autrement mystérieuse entre un libéralisme absolu en économie et un contrôle sécuritaire sans précédent.

Prenons deux exemples pour illustrer cette apparente contradiction. Celui de l’eau potable, tout d’abord. Bien qu’on sache que celle-ci va bientôt manquer sur une grande partie de la planète, aucun pays ne mène une politique sérieuse pour en éviter le gaspillage. En revanche, on voit se développer et se multiplier, aux quatre coins du globe, les techniques et les usines pour le traitement des eaux polluées — un grand marché en devenir.

Considérons à présent les dispositifs biométriques, qui sont l’un des aspects les plus inquiétants des technologies sécuritaires actuelles. La biométrie est apparue en France dans la seconde moitié du XIXe siècle. Le criminologue Alphonse Bertillon (1853-1914) s’appuya sur la photographie signalétique et les mesures anthropométriques afin de constituer son « portrait parlé », qui utilise un lexique standardisé pour décrire les individus sur une fiche signalétique. Peu après, en Angleterre, un cousin de Charles Darwin et grand admirateur de Bertillon, Francis Galton (1822-1911), mit au point la technique des empreintes digitales. Or ces dispositifs, à l’évidence, ne permettaient pas de prévenir les crimes, mais de confondre les criminels récidivistes. On retrouve ici encore la conception sécuritaire des physiocrates : ce n’est qu’une fois le crime accompli que l’Etat peut intervenir efficacement.

Pensées pour les délinquants récidivistes et les étrangers, les techniques anthropométriques sont longtemps restées leur privilège exclusif. En 1943, le Congrès des Etats-Unis refusait encore le Citizen Identification Act, qui visait à doter tous les citoyens de cartes d’identité comportant leurs empreintes digitales. Ce n’est que dans la seconde partie du XXe siècle qu’elles furent généralisées. Mais le dernier pas n’a été franchi que récemment. Les scanners optiques permettant de relever rapidement les empreintes digitales ainsi que la structure de l’iris ont fait sortir les dispositifs biométriques des commissariats de police pour les ancrer dans la vie quotidienne. Dans certains pays, l’entrée des cantines scolaires est ainsi contrôlée par un dispositif de lecture optique sur lequel l’enfant pose distraitement sa main.

Des voix se sont élevées pour attirer l’attention sur les dangers d’un contrôle absolu et sans limites de la part d’un pouvoir qui disposerait des données biométriques et génétiques de ses citoyens. Avec de tels outils, l’extermination des Juifs (ou tout autre génocide imaginable), menée sur la base d’une documentation incomparablement plus efficace, eût été totale et extrêmement rapide. La législation aujourd’hui en vigueur dans les pays européens en matière de sécurité est sous certains aspects sensiblement plus sévère que celle des Etats fascistes du XXe siècle. En Italie, le texte unique des lois sur la sécurité publique (Testo unico delle leggi di pubblica sicurezza, Tulsp) adopté en 1926 par le régime de Benito Mussolini est, pour l’essentiel, encore en vigueur ; mais les lois contre le terrorisme votées au cours des « années de plomb » (de 1968 au début des années 1980) ont restreint les garanties qu’il contenait. Et comme la législation française contre le terrorisme est encore plus rigoureuse que son homologue italienne, le résultat d’une comparaison avec la législation fasciste ne serait pas très différent.

La multiplication croissante des dispositifs sécuritaires témoigne d’un changement de la conceptualité politique, au point que l’on peut légitimement se demander non seulement si les sociétés dans lesquelles nous vivons peuvent encore être qualifiées de démocratiques, mais aussi et avant tout si elles peuvent encore être considérées comme des sociétés politiques.

Au Ve siècle avant Jésus-Christ, ainsi que l’a montré l’historien Christian Meier, une transformation de la manière de concevoir la politique s’était déjà produite en Grèce, à travers la politisation (Politisierung) de la citoyenneté. Alors que l’appartenance à la cité (la polis) était jusque-là définie par le statut et la condition — nobles et membres des communautés cultuelles, paysans et marchands, seigneurs et clients, pères de famille et parents, etc. —, l’exercice de la citoyenneté politique devient un critère de l’identité sociale. « Il se créa ainsi une identité politique spécifiquement grecque, dans laquelle l’idée que des individus devaient se conduire comme des citoyens trouva une forme institutionnelle, écrit Meier. L’appartenance aux groupes constitués à partir des communautés économiques ou religieuses fut reléguée au second plan. Dans la mesure où les citoyens d’une démocratie se vouaient à la vie politique, ils se comprenaient eux-mêmes comme membres de la polis. Polis et politeia, cité et citoyenneté, se définissaient réciproquement. La citoyenneté devint ainsi une activité et une forme de vie par laquelle la polis, la cité, se constitua en un domaine clairement distinct de l’oikos, la maison. La politique devint un espace public libre, opposé en tant que tel à l’espace privé où régnait la nécessité (6). » Selon Meier, ce processus de politisation spécifiquement grec a été transmis en héritage à la politique occidentale, dans laquelle la citoyenneté est restée — avec des hauts et des bas, certes — le facteur décisif.

Or c’est précisément ce facteur qui se trouve progressivement entraîné dans un processus inverse : un processus de dépolitisation. Jadis seuil de politisation actif et irréductible, la citoyenneté devient une condition purement passive, où l’action et l’inaction, le public et le privé s’estompent et se confondent. Ce qui se concrétisait par une activité quotidienne et une forme de vie se limite désormais à un statut juridique et à l’exercice d’un droit de vote ressemblant de plus en plus à un sondage d’opinion.

Les dispositifs de sécurité ont joué un rôle décisif dans ce processus. L’extension progressive à tous les citoyens des techniques d’identification autrefois réservées aux criminels agit immanquablement sur leur identité politique. Pour la première fois dans l’histoire de l’humanité, l’identité n’est plus fonction de la « personne » sociale et de sa reconnaissance, du « nom » et de la « renommée », mais de données biologiques qui ne peuvent entretenir aucun rapport avec le sujet, telles les arabesques insensées que mon pouce teinté d’encre a laissées sur une feuille de papier ou l’ordonnance de mes gènes dans la double hélice de l’ADN. Le fait le plus neutre et le plus privé devient ainsi le véhicule de l’identité sociale, lui ôtant son caractère public.

Si des critères biologiques qui ne dépendent en rien de ma volonté déterminent mon identité, alors la construction d’une identité politique devient problématique. Quel type de relation puis-je établir avec mes empreintes digitales ou mon code génétique ? L’espace de l’éthique et de la politique que nous étions habitués à concevoir perd son sens et exige d’être repensé de fond en comble. Tandis que le citoyen grec se définissait par l’opposition entre le privé et le public, la maison (siège de la vie reproductive) et la cité (lieu du politique), le citoyen moderne semble plutôt évoluer dans une zone d’indifférenciation entre le public et le privé, ou, pour employer les mots de Thomas Hobbes, entre le corps physique et le corps politique.

La vidéosurveillance, de la prison à la rue

Cette indifférenciation se matérialise dans la vidéosurveillance des rues de nos villes. Ce dispositif a connu le même destin que les empreintes digitales : conçu pour les prisons, il a été progressivement étendu aux lieux publics. Or un espace vidéosurveillé n’est plus une agora, il n’a plus aucun caractère public ; c’est une zone grise entre le public et le privé, la prison et le forum. Une telle transformation relève d’une multiplicité de causes, parmi lesquelles la dérive du pouvoir moderne vers la biopolitique occupe une place particulière : il s’agit de gouverner la vie biologique des individus (santé, fécondité, sexualité, etc.) et non plus seulement d’exercer une souveraineté sur un territoire. Ce déplacement de la notion de vie biologique vers le centre du politique explique le primat de l’identité physique sur l’identité politique.

Mais on ne saurait oublier que l’alignement de l’identité sociale sur l’identité corporelle a commencé avec le souci d’identifier les criminels récidivistes et les individus dangereux. Il n’est donc guère étonnant que les citoyens, traités comme des criminels, finissent par accepter comme allant de soi que le rapport normal entretenu avec eux par l’Etat soit le soupçon, le fichage et le contrôle. L’axiome tacite, qu’il faut bien prendre ici le risque d’énoncer, est : « Tout citoyen — en tant qu’il est un être vivant — est un terroriste potentiel. » Mais qu’est-ce qu’un Etat, qu’est-ce qu’une société régis par un tel axiome ? Peuvent-ils encore être définis comme démocratiques, ou même comme politiques ?

Dans ses cours au Collège de France comme dans son livre Surveiller et punir (7), Foucault esquisse une classification typologique des Etats modernes. Le philosophe montre comment l’Etat de l’Ancien Régime, défini comme un Etat territorial ou de souveraineté, dont la devise était « Faire mourir et laisser vivre », évolue progressivement vers un Etat de population, où la population démographique se substitue au peuple politique, et vers un Etat de discipline, dont la devise s’inverse en « Faire vivre et laisser mourir » : un Etat qui s’occupe de la vie des sujets afin de produire des corps sains, dociles et ordonnés.

L’Etat dans lequel nous vivons à présent en Europe n’est pas un Etat de discipline, mais plutôt — selon la formule de Gilles Deleuze — un « Etat de contrôle » : il n’a pas pour but d’ordonner et de discipliner, mais de gérer et de contrôler. Après la violente répression des manifestations contre le G8 de Gênes, en juillet 2001, un fonctionnaire de la police italienne déclara que le gouvernement ne voulait pas que la police maintienne l’ordre, mais qu’elle gère le désordre : il ne croyait pas si bien dire. De leur côté, des intellectuels américains qui ont essayé de réfléchir sur les changements constitutionnels induits par le Patriot Act et la législation post-11-Septembre (8) préfèrent parler d’« Etat de sécurité » (security state). Mais que veut dire ici « sécurité » ?

Au cours de la Révolution française, cette notion — ou celle de « sûreté », comme on disait alors — est imbriquée avec celle de police. La loi du 16 mars 1791 puis celle du 11 août 1792 introduisent dans la législation française l’idée, promise à une longue histoire dans la modernité, de « police de sûreté ». Dans les débats précédant l’adoption de ces lois, il apparaît clairement que police et sûreté se définissent réciproquement ; mais les orateurs — parmi lesquels Armand Gensonné, Marie-Jean Hérault de Séchelles, Jacques Pierre Brissot — ne sont capables de définir ni l’une ni l’autre. Les discussions portent essentiellement sur les rapports entre la police et la justice. Selon Gensonné, il s’agit de « deux pouvoirs parfaitement distincts et séparés » ; et pourtant, tandis que le rôle du pouvoir judiciaire est clair, celui de la police semble impossible à définir.

L’analyse du discours des députés montre que le lieu de la police est proprement indécidable, et qu’il doit rester tel, car si elle était entièrement absorbée par la justice, la police ne pourrait plus exister. C’est la fameuse « marge d’appréciation » qui caractérise encore maintenant l’activité de l’officier de police : par rapport à la situation concrète qui menace la sécurité publique, celui-ci agit en souverain. Ce faisant, il ne décide pas ni ne prépare — comme on le répète à tort — la décision du juge : toute décision implique des causes, et la police intervient sur les effets, c’est-à-dire sur un indécidable. Un indécidable qui ne se nomme plus, comme au XVIIe siècle, « raison d’Etat », mais « raisons de sécurité ».

Une vie politique devenue impossible

Ainsi, le security state est un Etat de police, même si la définition de la police constitue un trou noir dans la doctrine du droit public : lorsqu’au XVIIIe siècle paraissent en France le Traité de la police de Nicolas de La Mare et en Allemagne les Grundsätze der Policey-Wissenschaft de Johann Heinrich Gottlob von Justi, la police est ramenée à son étymologie de politeia et tend à désigner la politique véritable, le terme de « politique » désignant quant à lui la seule politique étrangère. Von Justi nomme ainsi Politik le rapport d’un Etat avec les autres et Polizei le rapport d’un Etat avec lui-même : « La police est le rapport en force d’un Etat avec lui-même. »

En se plaçant sous le signe de la sécurité, l’Etat moderne sort du domaine du politique pour entrer dans un no man’s land dont on perçoit mal la géographie et les frontières et pour lequel la conceptualité nous fait défaut. Cet Etat, dont le nom renvoie étymologiquement à une absence de souci (securus : sine cura), ne peut au contraire que nous rendre plus soucieux des dangers qu’il fait courir à la démocratie, puisqu’une vie politique y est devenue impossible ; or démocratie et vie politique sont — du moins dans notre tradition — synonymes.

Face à un tel Etat, il nous faut repenser les stratégies traditionnelles du conflit politique. Dans le paradigme sécuritaire, tout conflit et toute tentative plus ou moins violente de renverser le pouvoir fournissent à l’Etat l’occasion d’en gouverner les effets au profit d’intérêts qui lui sont propres. C’est ce que montre la dialectique qui associe étroitement terrorisme et réponse de l’Etat dans une spirale vicieuse. La tradition politique de la modernité a pensé les changements politiques radicaux sous la forme d’une révolution qui agit comme le pouvoir constituant d’un nouvel ordre constitué. Il faut abandonner ce modèle pour penser plutôt une puissance purement destituante, qui ne saurait être captée par le dispositif sécuritaire et précipitée dans la spirale vicieuse de la violence. Si l’on veut arrêter la dérive antidémocratique de l’Etat sécuritaire, le problème des formes et des moyens d’une telle puissance destituante constitue bien la question politique essentielle qu’il nous faudra penser au cours des années qui viennent.

Giorgio Agamben

Philosophe, auteur entre autres de L’Homme sans contenu, Circé, Belval (Vosges), 2013.

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(1) En cas de troubles graves, la république romaine prévoyait la possibilité de confier, de manière exceptionnelle, les pleins pouvoirs à un magistrat (le dictateur).

(2) Mis en place par la Convention, ces comités devaient protéger la République contre les dangers d’invasion et de guerre civile.

(3) Michel Foucault, Sécurité, territoire, population. Cours au Collège de France, 1977-1978, Gallimard- Seuil, coll. « Hautes études », Paris, 2004.

(4) La physiocratie fonde le développement économique sur l’agriculture et prône la liberté du commerce et de l’industrie.

(5) Les traités de Westphalie (1648) conclurent la guerre de Trente Ans opposant le camp des Habsbourg, soutenu par l’Eglise catholique, aux Etats allemands protestants du Saint-Empire. Ils inaugurèrent un ordre européen fondé sur les Etats-nations.

(6) Christian Meier, « Der Wandel der politisch-sozialen Begriffswelt im V Jahrhundert v. Chr. », dans Reinhart Koselleck (sous la dir. de), Historische Semantik und Begriffsgeschichte, Klett-Cotta, Stuttgart, 1979.

(7) Michel Foucault, Surveiller et punir, Gallimard, Paris, 1975.

(8) Lire Chase Madar, « Le président Obama, du prix Nobel aux drones », Le Monde diplomatique, octobre 2012.