ロバート・ダール、ウィキから
ロバート・ダール
ロバート・ダール(Robert Alan Dahl , 1915年12月17日 -2014年2月5日[1] )は、アメリカ合衆国の政治学者。イェール大学名誉教授(スターリング記念寄付講座教授号)。
経歴
アイオワ州生まれ。アラスカ州で幼少期を過ごし、ワシントン大学卒業後、1940年、イェール大学大学院から博士号取得。農務省勤務および兵役(1944年-1945年)を経て、1946年からイェール大学で教鞭をとり、1986年に退官。1966年から1967年までアメリカ政治学会会長を務めた。1995年、ヨハン・スクデ政治学賞を受賞。
アメリカ政治学界の「長老」と評される。旺盛な著作活動と、沢山の優秀な政治学者を育てたためである。ダールのおかげでイェール大学の政治学部は国内屈指の影響力を得たという者もいる。
1960年代にアメリカ合衆国の政治の本質を巡りライト・ミルズと有名な論争を行った。ミルズの考えではアメリカの各州の政府はごく少数の一致団結したエリートたちの手に握られている。これに対してダールは、エリートといっても多種多様で、相互に緊張もあれば歩み寄ることもあるとした。ダールの考えでは、そこにあるのは大衆迎合的な民主主義ではないが、少なくともポリアーキー(つまり多元主義)ではある。1961年刊行の『統治しているのは誰か』はダールの有名な著作の1つであるが、この本で彼が行っているのは、ニューヘイブンという都市を動かしている(公式的と非公式的を問わない)権力構造を分析することであり、このケーススタディによって自説を立証しようとしたのである。
もう1つの代表作『民主主義とその批判』(1989年)ではダールは民主主義概念を再検討している。近代国家で民主主義の理想を実現した国はない。ダールによれば、その代わり政治的先進国は、「ポリアーキー」の状態にある。ポリアーキーの下では公職従事者は自由で公正な選挙によって選出される。包括的な投票が行われ、公職を求める権利(立候補権)が認められ、表現・報道・結社の自由が保証されている。これらの制度のおかげで、政治権力の中心が複数生じる。しかし、これは民主主義の基準を満たさない。民主主義に要求される徹底した市民参加や厳重な政策監視を実現している国家は、ダールによれば1つもないのである。
2001年の『アメリカ憲法は民主主義的か』では、合衆国憲法の 起草者たちは将来について「まったく何も知らない」という立場に立って憲法を作ったため、本来あるべき民主主義がそこにはないと述べている。しかし、ダー ルが言うには「民主主義の崩壊という欠損が起こることを私は予見しているわけではないし、もちろん望んでいるわけでもないが、それについてできることはほ とんど、あるいはまったくないのである」とされた。
批判
- 社会学者のG・ウィリアム・ドムホフはダールのニューヘイブン市の権力分析に徹底した異議を唱えている("Who Really Ruled in Dahl's New Haven?")。
- 政治哲学者のチャールズ・ブラットバーグは、民主主義の必要条件と十分条件を一度に定義しようとするダールの試みを批判している(See Blattberg, From Pluralist to Patriotic Politics: Putting Practice First, Oxford and New York: Oxford University Press, 2000, ch. 5. ISBN 0-19-829688-6)。
邦訳著書
- 『民主主義理論の基礎』(未來社, 1970年/第2版, 1978年)
- 『規模とデモクラシー』(慶應通信, 1979年)-エドワード・R・タフティと共著
- 『ポリアーキー』(三一書房, 1981年、岩波文庫,2014年)
- 『経済デモクラシー序説』(三嶺書房, 1988年)
- 『統治するのはだれか――アメリカの一都市における民主主義と権力』(行人社, 1988年)
- 『現代政治分析』(岩波書店, 1999年、岩波現代文庫, 2012年)
- 『デモクラシーとは何か』(岩波書店, 2001年)
- 『アメリカ憲法は民主的か』(岩波書店, 2003年)
- 『ダール,デモクラシーを語る』(岩波書店, 2006年)
- 『政治的平等とは何か』(法政大学出版局, 2009年)
外部リンク
ポリアーキー / ロバート・A. ダール著 ; 高畠通敏, 前田脩訳
千葉大学 公共研究 第3巻第1号 (2006年6月)第4節 理想主義と現実主義の統合へ向けて
――ダールの「ポリアーキー」と「デモクラシー」
そのような現実主義と理想主義の関連という意味において、 ロバート ・ ダールを続けて取り上げることが有益であろう。 現実主義の側にたつと目されるダールが、 ロールズのような理想主義に対してどのような評価をしているのであろうか。
ロールズの 『正義論』 がアメリカ政治学に与えた影響は極めて大きいものといえるが、象徴的なのは、多元主義者として名高いロバート・ダールが『現代政治分析Modern political analysis』 において、政治哲学の章を設けたことである。1963年初版の本書の第4版(1984年)においてダールは、かつては「実証的な政治分析と比較して精彩を欠いていた」 政治哲学であるが、 ロールズの 『正義論』 の出版が 「少なくとも英語圏での政治哲学の分野において新しい著作が噴出する時代の幕を開けたことは疑いえない」 と述べて、 政治哲学の衰退と最近の復活を説明する章を設けたのである(Dahl(1994)pp.xi − xii=ⅹ∼xi頁)。そもそもダールは 「政治哲学は1950年代に死んだ」 と述べていた張本人である(Dahl(1958)p981)。
本書におけるダールのロールズ評価は、 専門の哲学者、 政治哲学・理論家のそれとは異なり興味深いものがある。 それは特に、 現実主義的な経験主義の立場との関係が強く意識されたものであるからであろう。 経験主義からの評価としてロールズの『正義論』は、先のシュトラウス学派によるものなどとは異なり、 アメリカ政治学内部での対抗的な勢力として生み出されたものではない点がまず指摘されている。 「幸いなことに、 政治哲学の復活は、 経験的分析の持続的な発展を妨げることにはならなかった」 というのである。 さらに「経験的分析が取り組もうとする問題の相対的な重要性を判断する基準のあり方を示唆することによって、経験的分析を強化したとさえいえるだろう」 とまで評価をしている(p.134=164頁)13。
このような評価は先述のように「政治学」内部から生まれたものではなく、ロールズがあくまで哲学を専門としており、彼による政治哲学の復権も、 脱行動論の流れのなかでそれに対抗するような勢力展開を行ったのではなく、 哲学内部における功利主義批判において生み出されたものであることも無関係ではないだろう。 その点に関してダールは、 功利主義批判はロールズに始まったことではないはずであるが、 「彼が絶対的な原則を正当化する手続きと、 それに加えて二つの比較的に具体的な原則の両者を提唱したこと」 によって、 彼の批判は 「政治哲学における先駆的批判者たちよりも大きな波紋を引き起こした」のではないかとの推測を行っている(pp.136 − 137=166頁)14。
いずれにせよ、 ロールズによる政治哲学の復権は、 現実主義 ・ 経験主義的な立場と真っ向から対立するものではなく、 むしろ補完的に政治学自体を発展させる可能性のあるものとして評価していることは、 脱行動論以後のアメリカ政治学のひとつの大きな方向性を示すものとして考えることができるのではないだろうか。
経験的あるいは科学的な考え方が規範的な考え方と基本的に衝突するということによっての明白な理由はなにもない。 両者はたがいに他方を豊かにすることができるのである。経験的な分析によってつくられた現実の地図作成mappingなしには、政治哲学は的外れな、あるいは単にばかけだものになりがちである。 また、古代であれ現代であれ、概して政治哲学者によって提起されてきた根本的な問いに対する関心がいく らかともなわなければ、経験的な分析は瑣末主義trivialityへと退化する危険を冒すことになる15。
もっともダールのこのような政治哲学、 ないしは規範理論に対する評価というものは、 ロールズ 『正義論』 とその後の彼の影響力の強さから生まれたものとは必ずしもいえない。 確かに政治哲学の死を宣言した彼が、 ここまで政治哲学を重要視することになったことは大きな変化、転換ということができると思われるが、 しかしながら、 そもそもダール自身、 政治哲学・規範理論が不要なものであると して行動論・ 科学主義的な現実主義の立場に立つていたわけではないのではないだろうか。
ダール政治理論の特徴の一つとして、規範的色彩があげられる。彼の研究過程の中期 (第二期及び第三期) において、 この傾向はやや後退した印象を与えるが、 初期及び後期の著作には、 この規範的色彩という傾向がはっきりと認められる。 一九五〇年代の行動主義の潮流をくぐり抜けてきた彼を、単なる 「行動主義者」 あるいは 「アメリカ多元主義の無批判的擁護者」と呼ぶのは、それ故正しくない。(加藤(1981)75頁)
また一方で行動論的な現実主義、経験主義の立場に立ちながらも、ダールが一貫してデモクラシーというものを「理想」として追求している姿勢もうかがうことができ、そのよ う な姿勢は「理想主義的現実主義」 とでも評すべき ものであろう。
彼はあく まで政治 「科学」 者であって政治思想家ではない。しかし、すでに述べたように、 彼は単に経験世界の科学的叙述を自己目的化しているわけではない。彼の政治学的探究を一貫して動機づけているのは、民主主義が、 単にそれを希求すればすぐに実現するような安易なものだとは考えない。現実の中から粘り強く、科学的方法によってそのための条件を拾い出し、少しずつ有効な戦略を組み立てていく ことを通じてしか近づき得ない、永遠の理想だと考えるのである。彼の政治的立場を一言であらわすなら、現実主義的理想主義という形容こそふさわしいといえよう。(谷(1991)287頁)
確かに先の 『現代政治分析』 の第4版の序文に加えて、 「多元主義者」 リンドブロムとの共著(Dahl and Lindoblom(1953))の第2版への序文における 「自己批判と自己反省」 は、 かつての多元主義者ダールからの変容が語られ、「二人のダール」といった説も見られるといわれている16。しかしながら、確かにダール自身の変容は見ることができるであろうが、 多元主義的現実主義から転換して現実主義的理想主義者へと「転換した」ということはやや誇張であるように思われる。
この「ポリアーキー」という概念は、すでにリンドブロムとの共著『政治・経済・厚生Politics,economics,and welfare』 に示されており、 本書においてデモクラシーは目標goalであって、成就achievementではないことが指摘され、「(到達することはないが) デモクラシーに接近する主要な社会政治過程のことを我々はポリアーキーと呼ぶことにする」とされている(Dahl and Lindoblom (1953)p41)。
ダールはこの民主化の 「過程」 をポリアーキーと表現しているわけであるが、 この過程をいかにして説明するかが問題となる。 その点に関して具体的な指標が『ポリアーキー』 (Dahl(1971)) において示されたといえよう。その指標は 「デモクラシーの一つの重要な特性は、 市民の要求に対し政府が政治的に公平に、つねに責任をもって応えること」との見解から、八つの条件を提示する (p3)。 その条件とは①組織を形成し、 参加する自由②表現の自由③投票の権利④公職への被選出権⑤政治主導者が、 民衆の支持を求めて競争する権利⑥多様な情報源⑦自由かつ公正な選挙⑧政府の政策を、 投票あるいはその他の要求の表現にもとづかせる諸制度という八つがそれぞれ存在することである。 そして 「この八つの条件を反映する単一の尺度をつくり、 公然たる反対や公的異議申立てあるいは政治的競争を許容する度合いに従って、 さまざまな体制を比較することは可能であろう」 との見解から、縦軸に「公的異議申立てをする自由」の度合いを、横軸に「包括性」(政治的参加の資格の広がり)の度合いをとりマトリクスを作成する(図表1:次ページ)。