佐藤英明「フ ッサールの心理主義批判」(2)

 

 

 佐藤英明「フ ッサールの心理主義批判」を読む。

http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/06/17/017-01.pdf

 

 

■論理学の「身分」と心理学主義の批判の論拠

  1. 『論理学研究』 第I巻の心理主義批判

『論 研I』 の第1節から第16節において、 フッサールは 「論理学」 に対する自らの立場を明らかにしている。 心理主義的な見方をすれば、 論理学は心理学に依存する技術学であり、実用的な学科である。他方、論理主義的な見方からすれば、論理学は心理学に依存しない理論学であり、形式的論証的 な学科である。 フッサールはこの両者のうちいずれが正しいかを論じようとはしない。 この論争における「原理的な食い違い」を考察することを通じて、論理学の身分を明らかにするのがフッサールの意図である。   ・

諸々の個 別科学はその基礎となる形而上学的諸前提や方法論を正当化することができない。それゆえ、そうした正当化をおこない、個別科学を学問たらしめる学科として の「学問論(wissenschaftslehre)」が必要となる。一群の知識(wissen)を学問(wissenschaft)とするには、知識を 体系的に正当化するための方法論的手続きが、 そして、 そのための規範が必要である。 その意味では、 論理学はそうした規範を提供する技術学と 見なすことができる。 しかし、あらゆる規範学、実用学は、その土台としての理論学を前提としている。 「AはBであるべきだ」 という形式の規範的命題は 「BであるAのみがC という性質を有する」 という理論的命題を前提としている。 後者は、 純粋に理論的な命題であり、規範化をおこなおうとするものではない。それゆえ、論理学の法則は、 それ自体は規範的ではない理論的命題である。 そして、 それは経験的事実に関する自然法則ではありえない。 したがって、 フッサールの考える論理学は 「学問的認識のあらゆる技術学にとって最も重要な土台を形成し、 アプリオリな純粋論証学の性格を備えた新しい純粋理論学」である。

論理学 をこのように性格づけたフッサールは、 論理学的技術学を構築するための理論的基礎を供給するのは心理学であるとする見解に対して論駁を試みる。 「ひとは脱却したばかりの誤謬に対しては何よりも厳しいものである」というゲーテの言葉で序言を締めくくったフッサールは、 『算術の哲学』において前提とされていた心理主義的な論理学と認識論に対し徹底した批判を展開する。ここでは『論研I』の心理主義批判を、(1)心理主義 の経験論的帰結、 (2)相対主義としての心理主義、 (3)心理主義の先入見の三つの論点に分け、概観しておくことにする。

  ■三つの経験論的帰結への批判

(1) 心理主義の経験論的帰結に対する批判

フッサールによれば、 心理主義的立場からは三つの経験論的帰結が導き出されるが、 それらはいずれも論駁される。

第 一に、 心理主義を前提とすれば、 論理学の諸規則は心理学の法則に基づくことになる。心理学の法則は経験の一般化であるが、 経験的な曖昧さを伴っており精密性を欠いている。 曖味な理論的基盤に基づく規則は、 同程度に曖昧でしかありえないはずであるが、 論理学的諸規則は心理学の法則とは違い精密である。それゆえ、論理学の諸規則が心理学的法則に基づくことはありえない(§21)。

第二に、 心理学の法則は自然法則である以上、 諸事実からの帰納によってしか正当化されえない。 だが、 帰納によって正当化されうるのは蓋然性にすぎない。 こうした心理法則に基づくとすれば、 論理法則も蓋然性しかもたないことになる。 しかし、 論理法則が必当然的明証性によって正当化され、 アプリオリに妥当するものであることは明らかである (§21一§22)。

第三に、 論理法則が心理学的諸事実の規範的転用であるとすれば、 論理法則は心的なものに関する法則であり、心的なものの実在を前提とすることになる。しかし、論理法則は事実問題を含まず、認識現象の実在も前提としては いない。それゆえ論理法則は心的体験の法則ではありえない(§23一§24)。

 

 ■心理学主義の相対主義批判

 (2) 相対主義としての心理主義に対する批判

心理主義は、 人間の意識現象の法則を論理法則の基礎とするため、 すべての真理は人間の主観に対して相対的であり、 人間の種的特性に相対的であることになる。 経験的心理学に依拠するにせよ、 人間一般の生得的素質としての知性に遡及するにせよ、 真理を一般的人間的なものから導出しようとするかぎり、 心理主義種的相対主義とならざるをえない。 それゆえ、 英国の経験論的論理学や近世ドイツ論理学を代表するミル、ベイン、ヴント、ジクヴァルト、エルトマン、リップスなどの心理主義的な立場はすべて種的相対主(5)義となる。

種的相対主義に対し、 フッサールは六つの批判をおこなっている (§36)。

① 真理が種によって異なるのだとすると、 同一の判断が、 ある種にとっては真、別の種にとっては偽ということがありうることになる。しかし、 同一の判断が真でも偽でもあるというのは、 真理の意味の一部をなしている矛盾律に反する。 それゆえ、 種的相対主義は背理である。

② これに対して「そもそも種によって真理概念が異なっており、 矛盾律は人間の真理概念の一部をなすとしても、 別の種にとっての真理概念には含まれていない」という反論も考えられる。しかし、その場合、そうした種が「真理」と呼んでいるものは、人間が「真理」と呼 んでいるものとは異なる。人間が「樹木」と呼んでいるものを「真理」と呼んでいることもあるのだとすれば、 「真理」 という語が種の数だけ多義的であるというだけであって、 「真理」 と呼ばれているものがまったく真理ではないということになる。真理という語の意味を変えて真理を論ずることは不可能である。

③ 種的相対主義は、一つの事実である「種の構造」によって真理を基礎づけようとする。しかし、事実は時間的に規定されるが、真理そのものは時間的に限定されるものではなく、 時間的被規定性は真理概念と矛盾する。

④ あらゆる真理が人間の存在を源泉とするとすれば、 人間が存在しない場合、いかなる真理も存在しないことになる。しかし、「いかなる真理も存在しない」 という命題は、 「いかなる真理も存在しないという真理が存在する」 という命題と同じことを意味するはずだが、 これは背理である。

⑤ 種的相対主義によれば、 「人間という種の構造が存在する」 という真

理 は、 人間という種の構造の存在によって生じていることになる。 しかし、 人間とは別の種Sの構造の存在から 「Sという種の構造は存在しない」 という真理が生じることもありうることになる。だがSという種の構造の非存在という真理の根拠がSという種の構造の存在にあるというのは矛盾である。

⑥ 世界は全対象の統一体である。しかし、種的相対主義によれば、全対象の統一体としての世界は存在しない。 存在するのはその存在者の種にとっての世界だけである。そして、 その存在者の種にとっての世界にはその存在者そのものは含まれていないかもしれない。そして、実際に存在しているあらゆる判断者の種がいずれも、 その判断者自身を含む世界の存在を承認できないような構造をもっとすれば、 そもそも世界は存在しないということになってしまう。

このような批判によって、 種的相対主義としての心理主義は斥けられる。

 

 ■心理学主義の三つの先入観

(3) 心理主義の先入見に対する批判

以上のようにフッサール心理主義から導き出される経験論的帰結と種的相対主義を批判する。 こうした心理主義の帰結に対してと同様に、心理主義の前提とされている見方についても批判が展開される。 フッサールによれば心理主義は三つの前提に基づいている。 しかし、 それらはすべて人を欺く先入見として論駁される。

第一の先入見(§41)

心的なものを規制する諸規則が心理学に基づいているのは自明である。したがって認識の規範法則が認識の心理学に基づかねばならないことも自明である。

批 判:すでに述べたように、論理学の法則それ自体は規範的ではなく、理論的命題である。 それは、 たんに判断作用の規範化に役立ちうるにすぎない。規範法則はもはや根源的な論理法則ではなく、そこから派生したものにすぎない。心理学の法則は自然法則で あり、 「事実的な存在および出来事に対する経験的に基礎づけられた規則」 である。それに対して、論理法則は「純粋に概念(理念、純粋概念的本質) に基づき、 それゆえに非経験的な法則性という意味においてイ(7)デアールな法則」である。論理学的規範は、 このイデアールな法則とし ての論理法則の規範的転用によって成立する。 他方、 心理主義者が認識の規範法則と見なしているのは 「種的人間的思考術の技術(8)的規則」であり、 レアルな心理学的事実に関する命題である。心理主義者は、 このイデアールな法則とレアルな法則との本質的相違を見落としている。

第二の先入見(§44)                        

論 理学で論じられるのは、 表象と判断、 推論と証明、 真理と蓋然性、 必然性と可能性、 理由と帰結、 等の諸概念である。 これらはすべて心的現象もしくは心的形成物であるから、論理学の命題や理論は心理学に基づかねばならな い。                                                       .

批判:心理主義 者の考えるように、論理学の命題が心理学に基づかねばならないとすれば、 純粋数学もまた心理学に基づかねばならないということになる。和や積などの算術的演算の産物についても、 加算する、 掛算するといった心的作用に遡ることは、 もちろん可能である。しかし、算術的諸概念にこうした心理的起源があるとしても、数学の法則が心理学の法則でなければならないというのは、 明らかな誤りである。数や和や積は、数える、加える、乗ずるなどの心的作用のことではないし、 それらの表象でもない。 それらは表象作用の可能的対象であり、 イデアールなものである。それゆえ、 レアルな心的体験の一部として捉えることはできない。

論理学についてもまったく同じことが言える。表象、判断、推論、証明といった論理学的概念が心理学的 起源を有することは確かである。 しかし、 これらの術語は多義的にならざるをえず、 一方では心的形成体を意味するが、 他方では 「純粋法則性の領域に属するイデアールな個別者を(9)表わす類的諸概念」を意味するのである。心理主義者は、こうした多義性を認識せず、 心的現象としての表象や判断のみを問題にしているにすぎない。

第三の先入見(§49)

判断が真と認められるのは、 その判断が明証的な場合である。 そして明証とは「ある判断にその感情が付帯することによって、 その判断の真理を保証するような一種独特の感情」である。それゆえ、論理法則は、誰もが内的経験から熟知しているこの明証感情に関して、 その有無を左右する心理学的条件を解明するものであり、 心理学的命題である。

批判 : 論理学の命題それ自体が、 明証やその条件について何かを言表するということはない。 しかし、論理学的命題を転用することで、 明証についての命題に転換することは可能である。 しかし、転換された論理学的命題によって示されるのは、 明証のイデアールな条件であって、 心理的なレアルな条件ではない。例えば、 百万の三乗桁の数に関する真理が存在するが、 誰もそのような数を実際に表象して計算し、 その真理について明証感情をともなう体験をなすことはできない。この場合、心理学的には明証は不可能である。しかし、それでもイデアールには可能な心的体 験である。 心理学が探究するのは明証体験の自然的条件であるが、 明証は心理学的条件に制約されるだけでなく、 イデアールな条件によっても制約されている。 それはイデアールな統一体である真理による制約である。「明証は、偶然に、 あるいは自然法則によって、 一定の判断と結びつく付随的な感情ではない」。 明証とは 「真理の体験」 にほかならないのである。