佐藤英明「フ ッサールの心理主義批判」(3)
■『論理学研究』第II巻への読者の失望
- 形相的心理学としての現象学の形成
『論研I』 は、 その大部分が以上のような徹底した心理主義批判に費やされ、 「純粋論理学序説」 というこの巻のタイトルが示すとおり 「純粋論理学」の理念を提示することで締めくくられている。1900年に本書が出版されると、多くの読者はフッサールが概念実在論的な論理主義の立場をと り、 『論理学研究』第II巻(以下『論研II』と略記)において「純粋論理学」が体系的に展開されることを期待した。 しかし、 そうした期待は裏切られることとなった。
翌年出版された第II巻は 「認識の現象学と認識論のための諸研究」 と題され、 六つの研究を収めたものであった。 なかでも第五研究 「志向的体験とその内容」と第六研究「認識の現象学的解明の諸要素」は、認識の心理学の研究そのもののように思われ、一部では「心理主義への逆行」とも受 けとられた。それに失望した読者も少なくなかった。
ハイデガーは、当時、第II 巻の「認識の成立にとって本質的な意識作用の記述」がやはり「心理学」と思われ、混乱したことを述懐しているし、バースは、心理学ではなく論理学について 論じるのだとしたフッサールが、 思考過程の諸要素について論じはじめたことに批判的に言及している。1901年の『論研II』初版の序論には次のような記述も見られ、 「心理主義への逆行」 という印象は否めない。 「現象学は記述的心理学である。 したがって、 認識批判学は本質的に心理学であるか、あるいは少なくとも心理学の地盤の上にのみ建設されうる。それゆえ純粋論理学もまた心理学に依存しているのであ る」。
■フッサールの根本的な洞察
だが、 むろん 『論研II』 が「心理主義への逆行」 であったわけではない。 フッサールの哲学の背後には、一つの根本的な洞察が存在している。それは『算術の哲学』以来、変わることなくその哲学を買いているものと思われる。 「認識する主観と認識される客観とは本来不可分な相関者である」 というのが、その洞察である。これは、ブレンターノがその「志向性」概念によって提示した意識と対象との不可分性を受け継いだものである。 概念実在論的な論理主義の立場では、 客観としての論理法則は主観から独立したものとされ、 論理学の体系は、 それだけで完結した理論的統一として考察される。 他方、心理主義の立場では、論理学の法則は心理学的法則に依存するものとされ、 論理学的な概念や命題のような客観は主観の一部と見なされてしまう。 いずれの立場も 「主観と客観は本来的には不可分」 という洞察に反するのである。
純粋論理学の研究は、 このような洞察を前提としておこなわれている。フッサールにとって論理学は、 学問を学問たらしめているものに関わる 「学問論」であり、論理学は「真の学問、妥当な学問そのものには何が属し,ているか、 言いかえれば何が学間の理念を構成しているのか」 を探究すべきものである。フッサールは、この学問論的な間題を「現代哲学の主要なテーマの一 つ」(15) と捉えており、その哲学的な基礎づけが必要であると考えている。
■現象学
しかし、 論理的な概念や命題のような客観のイデアールな存在を前提とし,て純粋論理学の体系を展開したのでは、 論理学は哲学的基礎づけを欠くものとなる。真の基礎づけのためには、 「客観は主観と不可分」 という洞察に基づき、純粋論理学のための認識批判的な解明による基礎づけが必要である。 そのための研究をフッサールは「現象学」と名づけた。「現象学は純粋論理学の根本概念やイデアールな法則が“発生”する“源泉”を解明するが、それらの概 念や法則に関して純粋論理学の認識批判的な理解に必要な “明B析性と判明性” を獲得するには、 “源泉” にまで遡つて追求しなければならないのであ(16)る」。
だが、論理学の認識批判的解明としての現象学は、『論研I』で批判された 経験的心理学であってはならない。 『論研II』 の初版(1901年) では 「現象学は記述的心理学である」とされていた。先述のように「記述的心理学」という名称は、 ブレンターノが「発生的心理学」 とは区別される自らの心理学に対して用いていたものである。
発生的心理学が、 心理現象を生理学的レヴェルから因果的に説明しようとする理論であるのに対し、 記述的心理学は、内的経験の内在的関係を記述的に解明しようとするものである。記述的心理学は 「経験的な説明と発生を目的とする心理学本来の研究」 とは区別されるものであり、それゆえ、心理主義批判は記述的心理学にはあてはまらないというわけである。
この「記述的心理学」という表現を用いていたの は、ブレンターノだけでなかった。 それは「内的経験の方法的重視と、 一切の精神物理的説明の捨象とによって限定される、 学問的な心理的諸研究の領域」 を示すものとして、多くの研究者に広く用いられていた。だが、フッサールの研究は 「一切の理論的一心理学的関心に無頓着な、 認識体験の純粋記述的研究」であり「認識論的に極めて重大な意義をもつ」。それゆえ、「記述的心理学」のかわりに「現象学」 という呼称を自らの研究に対して用いるというのである。
し かし、 「認識の純粋記述的研究」 とはいっても、 レアルな時間的存在である心的体験を扱う点では「発生的心理学」 と変わりなく、その点では自らがおこなった批判の対象となる。 初版の記述に見られるこうした曖昧さを自覚したフッサールは、改訂された第二版(1913年)では「現象学はたしかに記述的心理学ではない」として、初版の発言を撤回する。「現象学を記述的心理学と呼んで誤解を招いた私自身の呼び方」 の欠点についてフッサールは初版の出版直後に気づいていたという。
そして、 1903年にはすでにその訂正を試みている。 現象学は 「心をもつたレアルな存在の心理的な特性や状態に関する経験科学としての心理学では決してない」。現象学は、 レアルな事実としての心的状態や体験を論じるのではなく、「“本質”(本質類概念、本質種概念) の純粋に直観的な把握に基づいてのみ洞察されうるものについて」論じる。
ここでフッサールは、 現実世界の事実を扱う経験科学の経験的普遍性から、 純粋直観に基づく 本質把握のイデア的普遍性を明確に区別する。 「純粋算術が数について、 幾何学が空間形態について、 純粋直観に基づいてイ デア的普遍的に論じる」のとまったく同じように、現象学は「直観によって把握され分析されうる体験のみを純粋な本質普遍性において論じるのであって、レア ルな事実として、つまり経験的事実として定立され現出している世界の中に生きる人間や動物の体験として経験的に統覚されるような体験を論じるのではない」。現象学的な記述は「あらゆる経験的(自然主義的)統覚と定立の自然的遂行を排除する」。このような「純粋現象学」によってのみ「心理主義の徹底的な克服は可能である」 という。
■「イデーン」へ
学問論としての純粋論理学を基礎づけるには、 理論一般の可能性の条件を明らかにしなければならない。 理論的認識が可能となる条件にはレアルなものとイデアールなものとがある。 レアルな条件というのは「個々の判断主観や判断する存在者のさまざまな種(たとえば人間という種) に根ざすレアルな条 件」のことである。 これは、 その種の生物の判断を可能にする因果的条件であり、心理学的な研究の対象となる。
これに対し、 イデア的条件の一つは、理論的な統一を可能にするような純粋に論理学的な条件である。論理法則に反していれば、理論としての可能性は否定されることにな る。 フッサールによれば、 イデアールな条件にはもう一種類ある。 「主観性一般という形式と、 認識に対するその関係とに根ざすイデアールな条件」である。 これは「心理学的に制約される人間の認識作用の経験的特殊性」 とはまったく無関係な理論的認識のアプリオリな可能性の条件である。「たとえば、思考する主観一般が理論的認識を実現するあらゆる種類の作用を遂行する能力をもたねばならない、 といった条件はアプリオリに明証的である」。このようなイデアールな主観的条件は、 「ノエシス的条件(noetische Bedingungen)」 と呼ばれる。現象学において論じられるのは、このノエシス的条件である。
このように現象学を、 レアルな個別的事実の探究とは区別されるイデアー ルな本質の探究と位置づけることは、 心理主義批判を越えて現象学的探究を開始するための重要な前提となる。そのため、1913年に出版された『純粋現 象学と現象学的哲学のための諸構想 (イデーン)』 第I巻 (以下 『イデーンI』と略記) の第一章では、 本質学としての現象学の特色を明らかにするための準備として、 「事実と本質」 の区別が論じられ、 事実学と本質学との違いが明らかにされる。さらに、そこでは「本質直観」と呼ばれる本質認識の在り方が考察され、 事実的な経験的普遍性から本質普遍性にいたる方法が示されることになる。そして、特に事実的な心理現象からその本質へと向かうための方法は、現象学の研究 方法として「形相的還元」と呼ばれるようになる。
レアルなものを事実として探究する「事実学」は経験科学、実証的学問であり、心理学もその 一つである。いかなる事実学に対しても、その形相的本質を探究する「本質学」が可能であるとフッサールは考える。『論理学研究』において「現象学」と呼ば れていたのは、事実学としての心理学に対応する本質学であり、いわば「形相的心理学」である。そして、事実学はその本質法則にしたがわねばならないから、 それに対応する本質学に対し依存関係にある。換言すれば「『可能性』 の認識は現実性の認識に先行しなければなら
ない」ため、本質学は事実学の基礎となるのである。それゆえ「現象学(形相的心理学)は経験的心理学に対して、ちょうど事象内容を含んだ数学的諸学科(例えば、幾何学や運動学) が物理学に対して基礎的であるのと同一の意味において、 方法論的に基礎的な学問である」。
他方、 本質学は事実学には依存しない。 「形相的学はその意味上、 経験的学の認識成果をおのれのうちに編入することを、原理的に排斥する」。「幾何学や現象学は、純粋本質の学問として、 レアルな現実存在についての何らの確認にも関知しない」。 幾何学が黒板上の図形の現実存在に関心を抱く必要がないように、 現象学も体験の現実存在に何ら関心を抱く必要はないのである。
『論 研II』で提示された「形相的心理学」としての現象学は、一部では「心理主義への逆行」 とも受けとられたが、 次第に大きな影響をもたらすようになった。特にミュンヘン大学では、心理主義の立場をとっていた哲学者テオドール・リップスの弟子たちが、『論研』の出版 直後からその意義を高く評価し、ミュンヘン現象学派が形成された。フッサールは、『論研II』出 版された1901年にゲッティ ンゲン大学の助教授に任命されたが、 翌年、フッサールの下をミュンヘン大学の一人の学生が訪れた。 リップスの弟子のダウベルトであった。自転車でゲッティンゲンを訪れたダウベルトは、『論研』 についてフッサールと長時間にわたって討論をおこなった。 この議論の後、興奮したフッサールは夫人に「私の『論理学研究』を読んで完全に理解した者が、ここにいる」と言ったという。ミュンヘン大学では、リップス の「記述心理学」の影響を受けた学生たちを中心に「心理学研究会」がっくられていたが、ダウベルトはプフェンダーとともにその中心メンバーであった。 1904年にはフッサールをミュンヘンに招いて、心理学研究会でリップスとの間でも議論が展開され、 その後、心理学研究会はミュンヘン学派として現象学運動の拠点となっていった。