フッサール『論理学研究』読解(009)

■第五章 論理学的諸原則の心理学的解釈
■第二五節 ミルおよびスペンサーの心理学主義的解釈における矛盾律
□ミルの矛盾律の理論
 論理学の法則は、無時間的なものであり、「論理法則を心的諸事実に関する法則とみる解釈を貫徹した場合には論理法則を本質的に誤解する」(p.98/78)ものであることは、すでに述べられてきた。そして経験論は論理学の法則が「アプリオリに論証され、絶対二精密な純粋概念的な法則」(同)であることを主張しえず、ただ「心的生活の何らかの事実性に関する経験と機能によって基礎づけられた、多少とも曖昧な蓋然性」(同)の理論とならざるをえないのである。

 このことを明確に主張しているのが、ミルの矛盾律についての議論である。ミルは矛盾律を心理学的に根拠づけてみせる。夜と昼がともに存在しえないように、「信と不信はたがいに排斥しあう二つの異なる心的状態である」(99/79)ことに、矛盾律の「根源的基盤」があるというのである。

es sei das Princip, daß zwei contradictorische Sätze nicht zusammen wahr sind und sich in diesem Sinne ausschließen, eine Verallgemeinerung der angeführten Thatsachen, daß Licht und Dunkel, Schall und Stille u dgl. sich ausschließen; welche doch alles eher sind als contradictorische Sätze

フッサールの批判
 フッサールはこのような理論に二つの点で批判する。第一に、このような夜と昼の対立
矛盾律を説明しようとしても、「これらのいわゆる経験の諸事実と論理法則との関連をいったいどのように樹立しようとするのか」(p.100/80)まった理解できないことである。ミルはそのことを否定的様態と積極的様態が互いに排除するというスペンサーの説明に同意する。しかし「相互排除ということは積極的現象と否定的現象という相関的術語の定義に含まれているのであるから、この命題はまったくの同義反復である」(同)。

Aber wer sieht nicht, daß dieser Satz eine pure Tautologie darstellt, da doch der wechselseitige Ausschluß zur Definition der correlativen Termini „positives und negatives Phänomen" gehört?



 ミルはさらに心的な状態からこれを説明する。「われわれの経験の領域から逸脱するような命題を信じることは、……[人間精神の]現在の本性構造においては、心的事実として不可能である」(101/81)と主張するのである。これは矛盾律のうちに表現される両立不可能性を、「われわれの信憑におけるこのような諸命題の両立不可能性」(同)から説明しようとするのである。それは「矛盾対立する二つの信憑作用は両立できない」(同)主張することである。

Zwei contradictorisch entgegengesetzte Glaubensacte können nicht coexistiren — so müßte das Princip verstanden werden.


■第二六節 ミルの心理学的原理解釈が明らかにするのは法則でなく、まったく曖昧な学問的に検討されていない経験命題である
□ミルへの反論
 フッサールはこのように表現されたミルの主張について反論する。第一に、「原理の表現がたしかに不完全である。あい対立する信憑作用が共存できないのはどのような場合であるかを問わねばなるまい」(102/81)。別の人であれば、こうしたものも共存できるからである。
Unter welchen Umständen, so wird man fragen müssen, können die entgegengesetzten Glaubensacte nicht coexistiren?


 これは客観的な法則というが、狂者の推理、催眠状態における推理、熱にうかされた者の推理にも、同じ心理的なプロセスがあり、しかも正しくない推理を行う。経験論者はこれを排除するために「正常な思考状態にある人間の種の正常な個体」(102/82)という限定をつける。しかしそれでは「正常な」というのはどのようなものかというさらに困難な問題を呼び出すだけである。
daß es nur für normale und im Zustande normaler Denkverfassung befindliche Individuen der Species homo Geltung beanspruche.


 第二に、論理学で問題になる矛盾律は、二つの対立する信憑が共存しえないということを主張するものではない。ミルでは暗黙のうちに、一人の個人が心の中で、「今は昼である」「今は夜である」という矛盾する命題を語ってみて、それが両立できないことを確信するというプロセスを考えているようにみえる。しかし論理学の矛盾律は、このような心的なプロセスとはかかわりがあるものではない。

 ただ、正常であるかどうかを問わず、別の個人の信憑であろうと、人的に空間的に異なる場所と時間において抱かれた信憑であろうと、Aと非Aが同時に成立することはないという法則を提起しているだけである。「この規範の妥当性は経験論の側でさえ疑いえない」はずだ(104/84)。

■経験論の若干の原理的欠陥について
□経験論の誤謬
 このようにフッサールはミルの矛盾律の理論について二つの観点から批判したところで、経験論そのものの批判に議論を切り換える。心理主義的な論理学の背後には、経験論が控えていることを指摘しながら(「密接な内的な親近性がある」p.104/84)、経験論の根本的な誤謬を指摘する。

 第一に、経験論は人間の経験に依拠するものである。これは偶然的であり、個別的であり、間接的なものである。矛盾律を人間の心的な事実で裏付けるようとすることは、ある原理を基礎づけるために間接的な認識に依拠するということである。しかし基礎づけにおいて、別の原理や認識を要請する場合には、循環になるか無限遡行になるものである。

 「基礎づけの諸原理の正当化に必要な基礎づけの諸原理が、正当化の必要な原理そのものと同一である場合には循環になり、それら双方の基礎づけの諸原理がそのつどつねに別のものだとすれば、無限遡行になるのである」(p.105/85)。これは基礎づけについての明確な指摘である。

Er übersieht also, daß, wenn es keine einsichtige Rechtfertigung von mittelbaren Annahmen überhaupt giebt, also keine Rechtfertigung nach unmittelbar evidenten allgemeinen Principien, an denen die bezüglichen Begründungen fortlaufen, auch die ganze psychologische Theorie, die ganze aufmittelbarer Erkenntnis beruhende Lehre des Empirismus selbst jeder vernünftigen Rechtfertigung entbehrte, duß sie also eine willkürliche Annahme wäre, nicht besser als das nächste Vorurtheil.

 そしてミルによる矛盾律の基礎づけは、経験という間接的な認識に依拠するのであるから、それを基礎づけるために別の原理や経験が要請されることになる。そもそも基礎づけをするためには、「基礎づけを正当化する一切の原理はなんらかの直接的で明証的な究極的諸原理へ演繹的に還元されねばならず、しかもこの演繹は諸原理そのものが、すべてこれらの諸原理のもとで現れるようにしなければならない」(同)のである。

 フッサールはこの基礎づけの条件を確認した上で、経験論には「結局のところ経験的個別判断にのみ全幅の信頼を置いているのであるから、とりもなおさず間接的認識の理性的正当化の可能性を断念しているのである」(同)。これは「間接的認識の理性的正当化の可能性を破棄し、またそれによって学問的に基礎づけけられた理論としてのそれ自身の可能性を破棄する」(p.104-105/84)ことになるのである。

□ヒューム批判
 これは「穏健な経験論」(p.106/86)であるヒュームの理論にも該当することをフッサールは指摘する。ヒュームの理論は、「間接的事実判断は、理性的正当化を一切許さず、たんに心理学的な説明のみを許す」(同)と表現できるだろう。しかしこうした心理学的な説明は、「間接的な事実判断であり、したがって証明されるべきテーゼの意味ではなんら理性的に正当化されていないのである」(p.107/86)。このようにしてヒュームの理論は「懐疑論的学説」(同)と言わざるをえないのである。