氏族制度と資本主義--ウェーバー『儒教と道教』を読む(11)

 

■第四節 氏族制度と資本主義
□貴族制度の成立
 貴族制度は氏族の上に成立するが、その土台となるのは官吏の役職である。官吏は政府に任命されるが、同時に徴税請負人となり、税金を徴収する。すでに述べたような方法で、官吏はその職にあるあいだに富を蓄積する。退職した後は、その富を土地に投資する。息子たちは分割相続をして土地を細分化することのないように共同相続人となる。


 この共同相続人が目指すのは、家族のうちからさらに数人の官吏を出すことである。この官吏がまた富を蓄積し、さらに土地を買い増す。このように、家族の「成員が収入の多い官職につき、そのことによってもう一度また成員たちの相続共同体を富ませ、さらに成員たちの氏族仲間に、官職を得させる」[1]ことを目指すのである。


 このように都市貴族は大土地所有貴族となり、勢力をますます拡大してゆく、これは「政治的な官職利用」[2]を目指す階層であり、合理的で経済的な利益を追求する野ではなく、「内政的な略奪資本主義」(interpolitischer Beutekapitalismus)を目指すのである。

□氏族組織の意味
 貴族たちは氏族で構成され、家庭の利益の後には氏族の利益を追求する。村落は氏族または氏族連合の名前で呼ばれることが多かった。土地は個人ではなく、氏族に割り当てられていた。氏族は独自の権力をもっていて、「個々の氏族はそれ自体独立に、その成員を処罰する権力を要求し、また貫徹した」[3]。


 この自立した権利は、「法を超えて」効力を維持しただけではなく、「法に抗してすら効力をもっていた」[4]。氏族は外的には「連帯的に団結した」[4]。内部の成員の夫妻を解決してやることもあった。除名されることは、「市民としては死を意味した」[5]のだった。必要であれば、外部の氏族と「私闘」[6]を行った。


 成員の男子は結婚していれば平等な投票権があったが、独身の場合には審議権しかなかった。女性は遺産相続人になれず、氏族会議にも参加できなかった。統括していたのは長老であり、その仕事は収入の回収、財産の活用、収益の分配であり、「とりわけ祖先の供養を配慮し、祖先祠堂や義塾をきちんと整えておかなければならなかった」[7]。


 氏族の団結はこのよう祖先崇拝に依拠したものだった。この祖先崇拝は、「家の祭司としての家長によって、家族の助力のもとで管理されたところの、しかし明らかに古典的で太古以来の唯一の民間信仰」[8]であった。これは家産制国家の個人を対象とした政策をすべて無視するものだった。

 

□資本主義の成立を阻害する氏族制度
 これによって生まれたのは「家父長的権力の途方もない強化であり、とくに氏族の強化だった」[9]。「中国ではこの団結は維持・強化されて、政治的な支配者権力と対当の地からにまで成長した」[10]のである。


 氏族の役割を要約すると次のようになる。第一に氏族は「個人にとってもっとも大切な先祖を祭る祝祭の担当者であり、家長によって記録される家族史の対象である」[11]。第二に、資金のない賃労働者にごく安い金利資金を貸し付けて、独立した手工業者に育てる。第三に、資格のあると思われる若者を科挙試験に準備させ、費用を提供する。


 この意味で氏族は生活の基盤であり、村落はいつまでの故郷でありつづける。都市は「異郷」なのである。都市は皇帝のための組織であり、自治権がなかった。村落は皇帝の支配のおよばない独立した組織だった。「中国の行政史は、都市地区の外部にも、自己の要求を貫こうとする皇帝の行政の反復の歴史」[12]なのである。


 この氏族構造のうちでは、産業は家内工業より上には発展しなかった。市民階級が成立する可能性がなく、「西洋ではすでに中世に知られていて資本主義的営利の諸型式すら十分に成熟しなかった」[13]のである。氏族構造を基盤とする中国では、「純粋に市民的な産業的資本主義」[14]が成立する余地がなかったのである。

□氏族と法
 氏族を基盤とした家産制的な構造が、資本主義の発展の妨げとなった。それは「揺るがしがたい聖なる伝統の王国と、絶対に拘束されることのない自由意思と恩寵の王国が併存する」[15]状態を作りだした。資本主義の合理的な経営のためには、「行政と司法との合理的に計測することのできる機能」[16]が必要だったが、中国にはこれが欠如していたのである。


 さらにその裏側として、「政治的単位たる都市の団体的に自治と、他方では、決定的な法制度の特権的に保証されまた決定された確立」[17]が欠如していた。これが法形式の成立を妨げたのである。


 氏族制度と伝統主義のもとでは、法治原理を確立できなかった。中国には刑法について詳細な規定が確立されていた。そしてこの刑法の規定を集成して発表することが試みられたが、それは「もし人民がそれを読むことができるならば、人民はお上をおそれなくなるだろう」[18]という反対意見によって中止されたという。さらに氏族は、法で定められていない罰を加えることがあった。「反形式主義的な家父長的な特徴は明らかだった。つまり不快な行状は、特別の規定がなくでも罰せられたのである」[19]。

[1]同、153ページ。Ibid., p.375.
[2]同。
[3]同、154ページ。Ibid., p.376.
[4]同、156ページ。Ibid., p.378.
[5]同。
[6]同、156ページ。Ibid., p.379.
[7]同、158ページ。Ibid.
[8]同、155ページ。Ibid., p.376.
[9]同、156ページ。Ibid., p.378.
[10]同。
[11]同、158ページ。Ibid., p.380.
[12]同、159ページ。Ibid.
[13]同、172ページ。Ibid., p.390.
[14]同。
[15]同。Ibid., p.391.
[16]同、173ページ。Ibid.
[17]同。
[18]同、174ページ。Ibid., p.392.
[19]同、175ページ。Ibid.