中国における文人階層の特徴--ウェーバー『儒教と道教』を読む(12)

 

■文人階層の役割
□文人の特徴
 中国は「文学的な教養だけを社会的な尊敬の尺度にした」[1]特殊な国である。一四九七年に明の皇帝は文人たちに「先生」[2]と呼び掛け、尊敬の意を表明した。この文人の第一の特徴は、「俗人教養から発生した」[3]ことであり、これがキリスト教イスラーム教の聖職者との違いであり、文人たちはユダヤのラビのようでも、インドのバラモンのようでもなかった。かれらはたしかに儀礼に通暁していたか、祭司貴族の門閥の出でも、バラモンのような呪術師のギルドの出身でもなかった。多くは封建的な門閥の子息、とくに長男ではない子供たちで、「その社会的な地位がこの文字学や文献学に基づいていた人々」[4]なのである。


 インドでは伝承を文字に記録することを嫌ったが、中国では古代から文書化が進められた。「古体文字は呪術敵対象とみなされ。文字の学に精通した者は呪術的なカリスマの担い手とみなされていた」[5]のである。


 文人の第二の特徴は、それが文字に通じることと、暦学と気象学に通じていることによって、「儀式上重要なこの秩序を認識した。こうして適当な政治的権力に助言することは、文字の学のある者」[6]だけが行うことができたのだった。『史記』によると、魏において将軍と文人が宰相の座を争った。文人は自分には戦争の遂行の能力がないことを認めた。しかし彼は王朝に変革の危機が迫っていることを指摘した。そして将軍も「変革の防止には、自分よりもむしろ文人がいっそう適任であることを認めた」[7]のだった。


 このように「正しい国内的行政秩序と、君主のカリスマ的に正しい生活態度を、儀礼的および政治的に、指導できる唯一の資格者は、まさしく古代的な伝統の文字学の通暁者だった」[8]のである。


 第三の特徴は、文人たちが革命的な議論を展開したことである。彼らは最初から「封建制の敵対者」[9]であり、「文学的な教養によって、個人的に資格のある者だけが行政を行うべきである」[10]と主張した。


 第四の特徴は、文人たちは官職を求めて競争したことである。文人たちはこの資格に基づいて、諸侯のもとに仕官した。ギリシアのソフィストたちに近い文人たちが、諸氏百家として活躍したのである。この官職の争いのうちで、文人たちの正統の教義として儒学が誕生した。この儒学とともに、文人たちの自由な精神は失われるようになった。「カリスマの代わりに伝統が登場した」[11]のだった。

科挙
 科挙は「現実に完全に実施されたのは七世紀の終わり以降のことだが、科挙試験制度は、家産制的支配者が、官職俸祿への権利を藩臣や家士風に独占したかもしれないように、己に対する閉鎖的な身分か形成されるのを、それによって阻止できた手段の一つだった」[12]。閉じた身分制度の形成を防ぐとともに、才能のある人間を発見するための手段として、科挙は役立った。


 そもそも教育においては二つの方向がある。一つはカリスマを呼び覚ます方向であり、カリスマ的な支配において、才能のある者を発掘する。カリスマは外から与えることができなものであり、これは「発掘」しなければならないのである。


 もう一つは専門化した専門訓練を行うことであり、これは合理的で官僚制的な支配に適していた。これは陶冶教育であり、「指導的な階層の文化理想に応じてさまざまな性質をもつ文化人を、すなわちこの場合には一定の内的および外的な生活態度をもつ人間を育て上げようとする」[13]のである。これは対立するのではなく、カリスマをもつ者にも訓練は必要であり、専門官僚にも、訓練だけではなく素質が必要だった。しかし「身分的な特定の様式の生活態度を弟子に鍛練しようとするすべての教育諸類型は、この二つの対極のうちに含まれる」[14]のである。

 

[1]同、187ページ。Ibid., p.395.
[2]同、188ページ。Ibid.
[3]同。Ibid., p.396.
[4]同、189ページ。Ibid.
[5]同。
[6]同、190ページ。Ibid., p.398.
[7]同。
[8]同。
[9]同、191ページ。Ibid., p.399.
[10]同。
[11]同、194ページ。Ibid., p.401.
[12]同、198ページ。Ibid., p.405.
[13]同、203ページ。Ibid., p.409.
[14]同、202ページ。Ibid., p.408.