「キリスト教的禁欲の精神」と「資本主義の精神」の因果関係--山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(5)
山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」の五回目。今回は「キリスト教的禁欲の精神」と「資本主義の精神」の因果関係の証明にまつわる問題点が考察されます。
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□D.「資本主義の精神」の母体としての「キリスト教的禁欲の精神」
「儒教とピューリタニズム」論文における両宗教の比較論は,『倫理』論文の中の「近代資本主義の精神の……本質的構成要素の一つというべき,天職理念を土台とした合理的生活態度は……キリスト教的禁欲の精神から生まれ出た(34)」というテーゼを前提として展開される。しかし,わたしが別稿において示唆したように,このテーゼには理論的にも実証的にも重大な問題がある(35)。
ヴェーバーは,近代資本主義文化においては,それに対応するエートスとしての「資本主義の精神」が存在するという。これは,企業家をして合理的な利潤拡大に奔走させ,労働者をして組織的労働に邁進させる心性である。彼はその原型を,18世紀のベンジャミン・フランクリンの諸著作の中から抽出して見せる。他方彼は,中世においてカトリック修道僧によって世俗外で行われ,宗教改革以後においてプロテスタントによって世俗内で実践された「キリスト教的禁欲」の精神を発見し,その宗教思想の基礎を究明した。「禁欲的プロテスタント」の教義の中には,信徒の生活全体を組織的に規律化する強力な要因が存在することを,ヴェーバーは理論的に明らかにした。
こうして,「資本主義の精神」と「キリスト教的禁欲の精神」の類似性と適合的親和関係が示される。ここまでのヴェーバーの議論には,全く問題がない。問題は,「資本主義の精神」と「キリスト教的禁欲の精神」という二つのエートスの間の類似性や適合的親和関係を超えて,両者の間に因果関係を構築するためにヴェーバーが奇妙な論理と怪しげな史料操作を駆使するところにある。ヴェーバーの「倫理」テーゼに対する歴史家の批判は,この点に集中している(36)。
「キリスト教的禁欲の精神」と「資本主義の精神」の因果関係を,ヴェーバーは三段階の議論で証明する。第一段階でヴェーバーは,「禁欲的」プロテスタントが,自らの「恩寵の地位」を生活実践によって証明する必要から,全生活を方法的に規律化した,という。第二段階でヴェーバーは,彼らが,経済的成功によって自分の宗教的救済が証明される,と考えて職業労働に打ち込んだ,という。第三段階でヴェーバーは,禁欲的職業労働の結果として蓄えられた富が,「禁欲的」プロテスタント自身を堕落させて信仰心を失わせる,という。こうして信仰心の抜け落ちた職業義務の思想が,「資本主義の精神」と化して近代資本主義社会の中で独り歩きするようになる,というのである。
まず,第一段階の議論について言えば,生活全般の方法的規律化の習慣が,カルヴァン派,クエイカー派のみならず,メソディスト派についても確認できる,という点には,異論を差し挟む余地はないだろう。ただし,「恩寵の地位」の証明をその動機と考える点などについては,やや詳しい検討が必要である。これについては,後に第3章で行なう。
第二段階の議論は,「儒教とピューリタニズム」論文の中では,「典型的なピューリタンにとっては,経済上の成功は究極目標や自己目的ではなく,自己の救いを確かめうる手段であった(37)」と表現される。同じ論理は,『倫理』論文の中では第二章第一節「世俗内的禁欲の宗教的基礎」のカルヴィニズムを検討した部分で詳述される。
ヴェーバーはこの部分で,二重予定説によって内面的孤独化の感情に陥ったカルヴァン派の信徒を教導するために,牧会者が絶え間ない職業労働を厳しく教え込んだ,と指摘する。つまり,禁欲的職業労働が「永遠の救い」に予定されているという確信を信徒に得させるための手段となった,というのである。ヴェーバーが指摘するその唯一の史料的根拠は,ピューリタン牧師リチャード・バクスターの『キリスト教指針』の「特に終わりの部分の無数の個所」である(38)。
しかし,良く知られているように,バクスターは二重予定説を基本的に否定していた。「予定」に関する彼の考え方は,むしろアルミニウス主義のそれに近かった。もちろんバクスターは『キリスト教指針』の中で,職業労働に勤勉に従事するべきことを信徒たちに教えた。彼によれば禁欲的職業労働は,罪の誘惑を避けるための有効な手段であり,キリスト者としての生活の様々な重要な規範のうちの一つでもあった。彼は,ヴェーバーが言うとおり,キリスト者が勤勉に働いて富裕になることは罪ではなく,結果的に人々に奉仕できるのだから,むしろ良いことなのだ,とも言った。
しかし彼が勤労を勧めたのは,ヴェーバーが言うように,労働の成果によって自分の救済を確認させるためでは,決してなかった。怠惰の戒めと勤勉の奨励は,カルヴァン主義ピューリタンの教導書一般に共通するものであるが,宗教的な救済を経済的繁栄と結び付ける発想は,ピューリタン牧師たちには見られないのである(39)。なぜならば,このような思想は「貧しい人々は,幸いである,神の国はあなたがたのものである」(「ルカによる福音書」6章21節)に代表される,キリストの福音の「苦難の神義論」と矛盾するからである。
(34)ヴェーバー『倫理』,363~364頁。
(35)山本通「ヴェーバー『倫理』論文における理念型の検討」橋本務・矢野善郎(編著)『日本マックス・ウェーバー論争:「プロ倫」解読の現在』ナカニシヤ出版,2006年,所収。
(36)ヴェーバー「倫理」テーゼの宗教史的批判を試みた椎名重明『プロテスタンティズムと資本主義』東京大学出版会,1996年は極めて難解な研究書であるが,そのヴェーバー批判のポイントもこの点にある。
(37)マックス・ヴェーバー「儒教とピューリタニズム」『論選』197頁。
(38)ヴェーバー『倫理』,179頁。バクスター『キリスト教指針』に言及した注釈は,同,180~181頁。
(39)梅津順一『ピューリタン牧師リチャード・バクスター』教文館,2004年は,バクスターの生涯を概観したうえで,彼の思想の全体像を明らかにする。本書は,現在入手できる邦語のバクスター研究文献のうちで最良のものである。