ルター派の思想の特徴--山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(8)

山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」の八回目。キリスト教と「生活の倫理的組織化」の問題について

 

 ルターが宗教改革の原理として打ち出した「信仰のみ」「聖書のみ」そして「万人祭司」のスローガンは,カトリックの施設恩寵説を真っ向から否定するものであった。人が神の前に義とされるのは,個々の善行によるのではなく,信仰のみによる。宗教的な真理を確実に知るための手段は,聖書のみである。そして,聖書を通して真理を悟り,清らかな信仰を持つ人は,教会による聖化・承認を得なくても,人を宗教的に導くことができる,というのがその趣旨である。ルターのこの宗教改革原理は,恩寵施設としての教会の仲介なしに,神の恩寵が直接に人に注がれることを主張したものだった。しかし,施設恩寵の否定は,それだけでは,人々の生活の倫理的組織化を促すものとはならなかった。
 ヴェーバーによれば,ルター派の宗教感情は,みずからを「神の容器」とみなすので,「ルター派の敬虔感情は,本能的な行為と素朴な感情生活の自然な活力を訓致しなかった(54)」からである。「ルター派の信仰は,まさしくその恩寵論自体の帰結として,生活の方法的合理化を必至とするような組織化への心理的推進力を欠いていた(55)」。
 ヴェーバーは,ルターが聖書翻訳の仕事において,世俗内の職業の訳語として「召命」Berufという語を選んだことに注目した。中世のカトリック的世界においては,「召命」Beruf, callingという語は,「世俗から聖界に人を呼び出して聖職者にする」という意味で使用されていたのだから,この語を世俗内の職業に充てることは,世俗の職業を聖化することになる。ヴェーバーによれば,「ルター風の職業思想は,すでにドイツ神秘家たちによって広く準備されていた。とくにタウラーは,聖職の召命と世俗の職業とを原理上同価値としていた(56)」。したがって,世俗の職業を聖職と同じように聖化して,「神の召出し」であると捉える見方は,ルターの聖書翻訳の問題がどうであれ,16世紀中には西ヨーロッパで一般化し始めていた,と考えられる。
 その背景には,中世後期に封建的社会秩序が揺らぎ,農村で豊かな自作農や地主が成長し,諸都市では実力と品格を備えた市民が成長したという経済史上の事実があるだろう。しかしながら,ヴェーバーが言うように,ルターの思想全体の中では,世俗内の職業労働を神からの「召命」とみなす思想は,「伝統主義」ないし中世的有機体的職業倫理に取り込まれてしまった(57)。ヴェーバーによれば,有機体説的社会倫理は,救済宗教が本来的にもつ「現世との闘争」の要求と,政治の論理との妥協の一形態であり,「差別を含む合理的な同胞倫理」である。すなわち,「この種の社会倫理は,カリスマ的資質の不平等という事実を世俗における身分構造に結びつけて,聖意にかなった職業的秩序の上に築かれているような,詳しく言うと,その内部では,各個人ないし各集団に,それぞれのカリスマに応じて,また運命によって定まる社会的・経済的地位に応じて一定の任務が与えられているような,そういった秩序ある業績の世界へとまとめ上げていこうとする(58)」。
 ヨーロッパ中世のカトリック教会は,神の御旨を実現するために,国家と社会のすべての活動を規制して導く役割を引き受けようとしていた。教会のスコラ哲学者が説いた職業倫理は,有機体的理論と結びついていた伝統主義的なものであった。イギリスの社会経済史家トーニーは,これを次のように表現する。

 「社会は異なった段階から成る一つの有機体であり,人間の行動は相寄って色々な職分からなる,一つの階梯をなしており,その種類と意味は違っていても,すべてに共通した目的に支配されている以上は,それぞれの持ち場において,各々尊いものである(59)」。
 また,「人体と同じく,社会は種々の成分からできている一つの有機体である。各成員は,祈りとか,防衛とか,商業とか,耕作などというように,それぞれに自分の職分を持っている。各人はその身分に相応しい財産を受け取らなければならないし,また,それ以上の要求をしてはならない(60)」。


 このように,有機体説的社会倫理は中世ヨーロッパの封建制的階層秩序を擁護するものであった。封建制は,人口のうちの圧倒的多数を占める農民を苛烈に搾取する体制である農奴制の上に成り立っていた。しかし,教会はそれ自身が最大の土地所有者であったので,封建的な社会構造の変革を唱えることはできなかった(61)。キリスト教的な「生活態度の倫理的組織化・規律化」は中世ヨーロッパ世界においては,ヴェーバーのいわゆる「現世逃避的禁欲」という形で実践されていた。すなわち,キリスト教的禁欲は,禁欲的プロテスタントが登場する以前に,すでに中世カトリック教会の修道士たちによって実践されていたのである。
 ヴェーバーによれば,「それは,自然の地位を克服し,人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して,計画的意志の支配に服させ,彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとに置くことを目的とする,そうした合理的態度の組織的に完成された方法として,すでに出来上がっていた(62)」。

 修道士は,世俗の一般人を超絶した宗教的カリスマを修練によって獲得した人々であるが,彼らの生活は,中世カトリック的社会階層秩序の外側に位置づけられた。神によって選ばれた一握りの修道士たちが,有機体的に秩序化された社会の外側で,一般民衆のために,あるいは,一般民衆の代わりに,キリスト教的な理想の生活を実現したのである。しかしこの修道士による「生活の倫理的組織化」は,社会の外側で行われる限りは,当然のことながら,有機体的社会秩序を打ち壊す力を持たなかった。
 ルターの「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」という宗教改革のスローガンは,宗教生活と世俗生活との区別を無くすという性質のものなので(63),有機体的社会理論を破壊する可能性を潜在的に秘めるものであった。しかしルターは,その道を突き進むどころか,逆に,現存の社会秩序の安定を求めて,これを擁護した。彼は「教会制度の階層的な差別を打ち壊したが,身分と隷属の原理の上に立っている社会的な階層秩序は,そのままにこれを受け入れた」。そして,伝統的な社会観を楯にとって,社会秩序を破壊する潜在力を持つ農民一揆と強欲な独占業者の双方を,激しく非難した(64)。
 他方,イングランドにおいて王室の主導で推進された宗教改革は,教会組織の下部構造にも,伝統的な社会思想の体系にも手をつけることがほとんど無かった。そして,その社会倫理は,全く保守的で伝統主義的なものにとどまった(65)。通説によれば,有機体説的社会倫理は「近代的個人主義」の確立によって廃棄される。例えば,我が国における代表的なピューリタン研究者である大木英夫は「近代化の人間学的様相は,模型的に言うと,彫刻的人間から立像的人間へということであるが,抽象的に言うと,有機体の一分岐としての人間から,個的な人間へ,つまり<個人化>の過程」なのだ,という。そして,この「近代的個人主義」を支える論理がピューリタニズムの契約思想であった,としている。大木は,近代的個人主義ピューリタン革命期の前後に確立したと考えている(66)。
 また,R.H.トーニーも,その画期を1650年代のイングランドピューリタン革命に見る。彼によれば,カルヴィニズムの中には元来,神政政治的集産主義と個人主義の二つの傾向が存在したが,私的財産論を掲げる独立派の民主主義的運動をきっかけとして,個人主義が集産主義を圧倒するに至った(67)。これは,ピューリタン革命中の水平派や独立派の政治綱領の中に表現され,ホッブズジョン・ロックの社会政治理論の中で体系化された,マクファーソンのいわゆる「所有権的個人主義」の確立を意味している(68)。


(54)ヴェーバー『倫理』218頁。
(55)ヴェーバー『倫理』219頁。
(56)ヴェーバー『倫理』125頁。
(57)ヴェーバー『倫理』125~126頁。
(58)ヴェーバー「中間考察」『論選』125~126頁。
(59)トーニー『興隆』上巻,52頁。訳文を一部変更した。
(60)トーニー『興隆』上巻,55頁。
(61)トーニー『興隆』上巻,104頁。
(62)ヴェーバー『倫理』183頁。
(63)トーニー『興隆』上巻,163~164頁。
(64)トーニー『興隆』上巻,156~157頁。宗教改革活動開始以後,ルターの社会観が伝統主義的色彩を強めていった,という点については,ヴェーバー『倫理』121~122頁を見よ。
(65)トーニー『興隆』下巻,34~39頁。
(66)大木英夫『ピューリタニズムの倫理思想』新教出版社,1966年。同『ピューリタン中公新書,1968年。
(67)トーニー『興隆』下巻,125頁。
(68)Macpherson, C. B., The Political Theory of Possessive Individualism : Hobbes to Locke, Oxford, 1962.