儒教とピューリタニズムの比較--ウェーバー『儒教と道教』を読む(17)



■第七節 儒教とピューリタニズムの比較
□宗教の合理化の比較尺度
 儒教の合理主義とピューリタニズムの合理主義を比較する際の尺度は二つある。第一はその宗教がどこまで呪術から解放されているかであり、第二は、神と現世の関係がどこまで組織的に統一されているかである。


 第一の脱呪術化については、禁欲的なピューリタニズムは、完全に脱呪術化されている。ピューリタンたちは自分の愛人の死体も、儀式なしに埋葬させたほどである。「この世を完全に呪術から解放することは、このピューリタニズムの場合だけにおいて徹底的に実現された」[1]。ピューリタニズムでは呪術は悪魔的なものとして排撃した。


 儒教では「呪術の実際上の救済的な意義は、そっと触れずにおいた」[2]。「この呪術の園を維持していくことは、儒教倫理のもっとも内奥の傾向に属していた」[3]のである。


 第二の点については、ピューリタニズムは「世俗との強烈で激情的な緊張対立」[4]のうちにおいた。現世の拒否という形での現世との緊張対立を最小限にした合理的な倫理が儒教倫理だった。儒教にとっては「現世は考えうる世界のうちでも最善の世界であり、人間の天性はその素質からして倫理的に善良であった」[5]。


 儒教にとっての「救済への道」は、「この世の永遠の超神的な秩序、つまり道への適応であり、宇宙的な調和からの結論たる共同生活という社会的な要求への適応」[6]であった。そのため「世俗的権力の固定した秩序への畏敬にみちた従順」[7]が求められた。儒教においては、倫理を超越的なもののうちに根付かせる要素がまったくない。「超現世的な神の命令と被造物的な現世の間にいかなる緊張対立も、来世の目標へのいかなる覚悟も、また根源悪のいかなる概念も存在しなかった」[8]。儒教では禁欲と苦行と隠退を知らず、無為徒食の行為として否定された。「教養のある儒教徒は呪術的な観念のなかで暮らしていた」[9]のであり、大衆も同じである。


 「中国人の宗教心のうちには、心に平静を失わせることがあるようなものは何ものも存在してないかったし、存在してはならなかった」[10]。「病的な興奮を起こす禁欲やそれに近い形態の宗教心の欠如と、すべての陶酔祭祀の排除」[11]が中国の宗教心の特徴である。中国人は「酔わない」民族だった[12]。

□超越性の否定
 儒教や中国の宗教心は超越的なものを否定した。「ピューリタニズムにおける超世俗的、彼岸的な神にたいする宗教的な義務」は、現世的な倫理を超越することを求めたが、「敬虔な中国人の宗教的な義務は、反対に、有機的に与えられた情緒的な関係の内部において効果を現すこと」[13]を求められた。


 墨子は「兼愛」という概念が普遍的な人間愛を表現したが、孟子はこれを否定した。それでは「恭順と正義が抹殺される」と考えたのであり、「父もなく兄もないのは禽獣の類である」[14]と批判したのである。

□二つの倫理の対比
 儒教もピューリタニズムも非合理的なものを根拠とした。儒教では呪術を根拠とし、ピューリタニズムでは超世俗的な神の結局は究めがたい決意が根拠である。呪術からは伝統の不可侵性が帰結した。神の決意からは、「伝統は絶対に神聖なものではない」[15]ということが結論された。


 ピューリタニズムにとっては「実質的に最大の精神的な報償は、合理的で道徳的な生活方法論にかけられ、統一ある中心から制御された確固たる原則に従う生活だけが神の思し召しにかなうものとみなされた」[16]。自己の倫理的な決意と原則だけが重要であり、伝統は否定すべきものだった。「罪と苦悩を合理的な秩序によって抑制し、倫理的な規律下におくことによって、自己の栄誉が実現されることを欲した」[17]のである。

□営利との関係
 中国では富には倫理的な価値があるとみなされた。「金銭と金銭関心は、ほかでは珍しいほどにその土地の人間同士の対話のテーマになる」一方では、「近代資本主義が前提したように、合理的な様式の偉大な方法的な営業観念」[18]は発生しなかった。ウェーバーは古代地中海世界よりも中国は資本主義に遠いと考えている。「営利欲と、富にたいする非常な、それどころかひたすらな尊重と、功利主義的な合理主義だけでは、近代資本主義とは何の関係ももたない」[19]のである。

 


[1]同、378ページ。Ibid., p.513.
[2]同。
[3]同。
[4]同、379ページ。Ibid.
[5]同。Ibid., p.514.
[6]同、380ページ。Ibid.
[7]同。
[8]同。Ibid., p.515.
[9]同、382.ページ。Ibid., p.516.
[10]同、386ページ。Ibid., p.519.
[11]同。
[12]同。
[13]同、392ページ。Ibid., p.523.
[14]同。
[15]同、399ページ。Ibid., p.527.
[16]同、398ページ。Ibid., p.526.
[17]同、399ページ。Ibid., p.527.
[18]同、402ページ。Ibid., p.528.
[19]同、403ページ。Ibid., p.530.