ドビュッシー、ペレアスとメリザンドを作曲(1901)--20世紀の思想と芸術

 

 

ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)

 

5幕の抒情劇ペレアスとメリザンド』(仏語Pelléas et Mélisande)は、クロード・ドビュッシーが完成させた唯一のオペラである(初期や晩年のその他のオペラの遺稿は、後世に補筆されている)。台本には、著名な象徴派の詩人モーリス・メーテルリンクの同名の戯曲ペレアスとメリザンド』が、ほぼそのままの形で用いられている。

1893年に着手され、1895年に一時中断されたものの、1901年に作曲を終え、1902年オーケストレーションと最終的な改訂を済ませた。1902年4月30日パリオペラ=コミック座アンドレ・メサジェの指揮により初演された。日本初演1958年(昭和33年)11月28日、東京・産経ホールにおいて古沢淑子ほかのソロ、ジャック・ジャンセンの演出、ジャン・フルネ指揮日本フィルハーモニー交響楽団によって実現した[1]

 

 

作品

ペレアスとメリザンド』は、王太子ゴローの弟ペレアスと王太子妃メリザンドによる禁断の恋の物語である。本作の録音は数多く、定期的に上演されているが、オペラ愛好家の間でも、必ずしもすぐに理解できるような作品であるとは見なされていない。しばしば印象主義音楽のオペラと呼ばれるが、しかしこのような皮相な見方は、ドビュッシー自身が遺した解題に楯突くものである。

旋律法はムソルグスキーの影響を受け、伝統的なアリアレチタティーヴォの分離が避けられ、両者が融合されている。つまりフランス語の抑揚の変化がそのままピッチとリズムの変化に置き換えられているため、歌うというより語るような旋律となっており、伝統的な意味での旋律的な要素は目立たなくなっている。しかしこのようなドビュッシーの旋律概念の再発見(もしくは革新)は、その後のシェーンベルクシュプレッヒゲザングや、ヤナーチェクバルトークの旋律法(パルランド様式)にも明瞭な影響を与えている。

なお、第3幕第1場でメリザンドが歌う唯一のアリア的部分(ただし管弦楽は沈黙しア・カペラ独唱)は、このオペラでは「私は日曜の午後の生まれ」という歌詞が付いているが、これはメーテルリンクの戯曲では初版にのみ載っていたものであり、次版以降は「3人の盲目の姉妹」という歌詞に改訂されている。フォーレシベリウスの劇音楽はこの改訂版に基づいている。

メシアンは自著で、このオペラの第1幕第1場12小節に現れる、I度長調の主和音上にVII度長調の主和音を重ねた和音を『ペレアスの和音』と呼び、自身の楽曲分析に応用している。

あらすじについては原作戯曲『ペレアスとメリザンド』の項を参照。

登場人物

楽器編成

通常の3管編成

演奏時間は約2時間半。

評価

ドビュッシーにとって10年越しのオペラであり、しかもそれがワーグナーへのアンチテーゼであることはそれ以前の音楽雑誌などでたびたび語られており、パリ楽壇は満を持してこのオペラに注目していた。1896年にメーテルリンクの原作戯曲を元にロンドン公演を行うパトリック・キャンベルは、既に作曲された断片による付随音楽式の上演をドビュッシーに打診したが、ドビュッシーは完成されたオペラとしての上演にこだわりこれを拒否、代わりにフォーレがこのときの劇音楽を担当している(ペレアスとメリザンド (フォーレ) 参照)。

オペラ・コミックでないにもかかわらずこのオペラが国立オペラ座ガルニエ宮)ではなくオペラ=コミック座で初演されたのは、古い伝統様式であるグランド・オペラへのこだわりを初めとする国立オペラ座の悪しき旧体制をドビュッシーが避けたためであるが、音楽的な評価においてはその新しい作曲語法にもかかわらず極めて好評で、聴衆の音楽的拒否は全く発生しなかった。

しかし、音楽とはまったく別の意味でのスキャンダルは発生した。原作者であるメーテルリンクが、歌手であるその妻、ジョルジェット・ルブラン=メーテルランクモーリス・ルブランの妹。正確には当時同棲相手で後に結婚)をメリザンド役に推薦したのに対し、ドビュッシーがイギリス人歌手であるメアリー・ガーデンを主役に起用したことから、メーテルリンクは激怒し(メーテルリンク側の主張によると、ドビュッシーはそれ以前、ジョルジェット・ルブランを起用することを承知していたのに、それを翻意したという)、オペラ化にあたってドビュッシーがいくつかの改変を行ったことを口実に、上演中止をめぐって裁判を起こした。この裁判は、以前、メーテルリンクドビュッシー宛に改変許可の手紙を送っていたことなどから、ドビュッシーが勝利した。しかし、敗訴の後もメーテルリンクは新聞紙上に「このオペラは完全に私の原作の意図するものに反している」とする公開状を掲載したり、初演会場で中傷ビラを配ったりしたほか、本番中に野次まで飛ばし(メリザンドが第2幕第2場で「ああ、私は幸せではない」と言うのに続けて「俺たちもね!」など)、オペラの上演を徹底的に妨害した。

ワーグナーからの脱却を試みたオペラであると言われるが、一方である旋律が登場人物やその心情などを表すライトモティーフ的使用や、明確なアリアなどを持たず1幕を交響曲の一つの楽章のように流動的なものとして扱うなど、作曲語法的な面ではワーグナーの影響は大きい。しかし大仰な節回しやライトモティーフの乱用による過度に説明的な音楽は極力避けられ(例えばペレアスが愛の告白をする場面では管弦楽は沈黙し、レ・シ♭でJe t'aimeとたったの2音のみである。ドビュッシーは「もしワーグナーだったらここで長大なアリアが出てくるだろう」と述べており、特に『トリスタンとイゾルデ』へのアンチテーゼが見て取れる)、美学的見地においては明らかに新境地の開拓に成功している。

この『ペレアス』によってドビュッシーの「印象主義音楽」的評価が確立したと言っても良い。しかしこのオペラの筋書きはむしろ始まりと終わりの明確な印象を持たない象徴主義的なテクストであり、またドビュッシー自身は印象主義という言葉を必ずしも好まなかった。ドビュッシーの美学は同時代の絵画的印象よりもむしろ彼と交友のあったピエール・ルイスステファヌ・マラルメといった文学にこそ近いものであった。

これ以降ドビュッシーの作風はあきらかに変化し、例えばピアノ曲や歌曲においてもそれまでの前世紀末的印象が強いサロン用小品から、より芸術的に思慮深い作品群へと成長していく。

ペレアス』初演からわずか3年後の1905年、ドビュッシー交響詩』を発表するが、『ペレアス』とのあまりの作風の違いとまたもや私的スキャンダル(エンマ・バルダックとの再婚と前妻リリー・テクジェの自殺未遂)によって不評を買う。このとき既にドビュッシーにとっては『ペレアス』の作曲を始めた1893年から作風の変化を遂げているのはむしろ当然であった。

オリヴィエ・メシアンは少年時代のクリスマス・プレゼントに『ペレアス』の楽譜を貰って以来この曲に夢中になり、その作風に多大な影響を与えた。後年パリ音楽院で受け持った楽曲分析のクラスでは、ペレアスの詳細な分析を取り上げた。この授業に関する文書はアルフォンス・ルデュック(Alphonce Leduc)社から全7巻で出版されているメシアン遺稿集に収録されている。旋法構成などごく一部は「わが音楽語法」にも掲載されている。

 

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