フッサール『論理学研究』読解(007)

■第二〇節 心理学主義者の論証にひそむ欠陥
□純粋論理学とは
 これらの三つの論拠において、心理学主義者が優勢にみえるが、フッ サールはこうした議論が反復されるのは「哲学的な驚くべきこと」(philosophische Verwunderung p.78/58)であると指摘する。そしてこれらの議論では正しい論点が提示されていな いために、議論が片付かないのだと主張する。フッサールが注目するのは第三の基礎づけの議論である。

 フッサールはこの基礎づけの議論に おいては明記されなかった論点として、心理学はたしかに論理学の基礎づけをしていることを認める。論理学がとりあつかう判断が、まずし心理的なものである ことは否定できないからである。ただし基礎づけを行うのは心理学だけではないと主張するのである。


 心理学が論理学の基礎づけに関 与していることを認めるとしても、心理学だけがそれに寄与していることは証明されていないし、強く寄与していることも証明されていないと指摘する。そして 心理学は論理学に、「本質的な土台を与えるとは証明されていない」(p.79/59)のであり、もっと別の学がそれを提供しているかもしれないのだ。それ が「純粋論理学」である。
Und hier mag die Stelle sein für jene „reine Logik", welche nach der anderen Partei ihr von aller Psychologie unabhängiges Dasein führen soll, als eine natürlich begrenzte, in sich geschlossene Wissenschaft.


 論理学のうちで提示されるのは、個人の心理的な動きとは別の次元の真理であり、「それら真理のうちに論理学全体の本質を認め、それら真理の理論的統一を純粋論理学という名で呼ぶように」(同)なったというのである。

  この学は、論理学の基本的に特徴である「論理学的真理」(p.80/60)を扱う学である。論理学のうちで提示されるのは、個人の心理的な動きとは別の次 元の真理であり、こうした真理が認められているだけに「人々は容易に、それら真理のうちに論理学全体の本質を認め、それの真理の理論的統一を純粋論理学と いう名で呼ぶようになったのである」(同)。こうしてフッサールの目指す純粋論理学がその姿を現すことになる。

 dann konnte man leicht dazu kommen, in ihnen das Wesentliche der ganzen Logik zu sehen und ihre theoretische Einheit mit dem Namen „reine Logik" zu benennen.

 

■第四章 心理学主義の経験論的な帰結
■第二一節 心理学主義的立場の二つの経験論的帰結の特徴とその論拠
□心理学主義的な論理学の重要な二つの欠陥
 フッサールはこの純粋論理学のプロジェクトの根拠を示すために、心理学と論理学の違いを確定しようとする。まず心理学の法則は「曖昧な」法則である。心理学法則は「経験の一般化」として非常に有益なものではあるが(p.81/61)、「曖昧な一般化にすぎず、共存または継起のおおよその規則性に関する言表にすぎない」(同)。イギリスの経験的な心理学が示す連合の規則などは、精密なものではないのである。


 このように心理学の規則が曖昧なものであるために、それに依拠した「論理学的諸規則にも同じことがあてはまる」(p.82/61)。しかし論理学の法則は「絶対に精密」(同)なものであり、これは真の法則として、「たんに経験的なすなわち偶然的な規則ではない」(p.82/62)。これには純粋数学の法則も含まれるだろう。

 第二に、こうした曖昧さを否認するために「精密と思われている思考の自然法則によって基礎づけようとしても」(同)、大きな成果はえられないだろう。「自然の法則はアプリオリには認識できないものであり、それ自身洞察的に基礎づけられうるものではない。このような法則を基礎づけ正当化する唯一の道は、経験の個々の諸事実からの帰納である」(p.83/62)だろう。しかし「帰納は法則の妥当性を基礎づけるものではなく、ただたんにこの妥当性の多少高い蓋然性を基礎づけるに過ぎない」(同)。

 これに反して純粋論理学の法則が「アプリオリに妥当することは何よりも明らか」(同)である。「洞察的に正当化されているのはそれら純粋論理法則の妥当性のたんなる蓋然性ではなく、それらの妥当性のそのもの、ないしは真理そのものである」(同)。論理学の法則は真理であり、機能で基礎づけられるものではないのである。そのことは矛盾律を考えればすぐに分かる。この推論は「憶測される」のではなく、絶対的に妥当するのである。

 


 厳密な法則とみられている物理学の万有引力の法則ですら、「自然科学者は誰もそれを絶対的に妥当する法則と理解していない」(p.83/63)のである。いかに精密でも、事実学では「観察の不正確さがどうしても除去されない」(p.84/63) 。せいぜい蓋然性を示すにすぎないのである。しかし論理学では「たんなる蓋然性ではなく、それらの真理を洞察している」(同)。論理学では原理のうちで真理そのものを把握しているのである。結論としては、「心理学はあらゆる論理学の核心をなす、あの確然的に明証的な、従って超経験的で絶対に精密な法則を与えることはできない」(p.85/64)のである。

 ここでフッサールライプニッツの事実の真理と理性の真理と同じ区別をしていることに注意が必要である。フッサールの真理論は、一致の真理論(現前の保証する真理)、全体の体系における真理論(命題の体系の全体が保証する真理)、そしてここで内的な確実性をそなえた思考の法則の真理論(論理的な確実性としての真理)と、三つの真理論を含むことになる。

■第二二節 孤立した単独の働きによって理性的思考を惹起する、いわゆる自然法則としての思考法則
□心理学主義的な論理学の代表的な主張への反駁
 ここでフッサールは、有力な心理学主義的な論理学の主張を提起して、それを反駁そようとする。その議論は次のように主張する。

 思考法則は、思考する者であるわれわれの精神の特徴を性格づける自然法則である。だから正しい思考を定義する適合性の本質は、習慣、傾向、伝統のような他の心理的影響によって曇られることのない思考法則の純粋な働きのうちにある(p.85/65)というものである。

フッサールの第一の反論--蓋然性
 フッサールは二つの観点からこの主張に反駁する。第一に思考法則というものは、すでに指摘したように「自然の法則」であるならば、蓋然的なものとしてしか与えられない。そうだとすると、確実に正しいと判定される主張は存在しないだろう。「蓋然性があらゆる正しさの根本基準であるならば、当然ながらどの認識にもたんなる蓋然的なものという刻印がうたれているからである」(p.85/65)。

 この場合には、すべての知識は蓋然的であるという主張もまた、蓋然的なものとなるだろう。そしてこの主張そのものもまた蓋然的なものとなり、この蓋然性の指摘が無限に繰り返されることになるのである。
Auch die Behauptung, daß alles Wissen einbloß wahrscheinliches ist, wäre nur wahrscheinlich giltig; diese neue Behauptung abermals und so in infinitum.


フッサールの第二の反論
 さらにこの主張は、思考が純粋にこうした自然法則から遂行されていると主張するが、それを保証するものがないのである。思考がそのように遂行されていることを説明する「記述的および発生的な分析」(p.86/66)が存在しないのである。ここには次のように二つの混乱が存在すると思われる。この混乱が「心理学主義の誤謬を助長した」(同)のである。

□二つの混乱
 第一に論理法則と判断が混乱されている。「論理法則そのものと、論理法則がその中で認識されることもある判断作用という意味での判断が混同されている」(p.86/66)。そこでは判断内容としての法則と、判断という行為そのものが混同されているのである。判断という行為は、「原因と結果をもつリアルな出来事である」(同)。しかし法則はリアルな出来事ではなく、「イデア的なもの」(p.87/66)である。この二つが混同されているのである。

 第二に、その当然の結果として、「因果関係のうちに含まれる法則と、因果関係の規則としての法則の混同が起こる」(同)のである。それは法則が人間の思考を規定する「力」のように思い込まれているからである。

□ある思考実験
 この混同をさけるために、ある実例を考えてみよう。「あらゆる思考を論理的な法則に従って実行する理想的な人間というものがいたとしよう」(p.88/67)。この場合にも思考はある心理学的な法則に従って行われるはずである。その場合に、この論理学の法則と、思考を心理学的に規定する因果法則は同じものだろうか。そうではないはずだ。思考が蓋然的な因果法則に従って行われたとしても、この人物の思考は「論理学のイデア的な諸規範」に従って行われているはずである(同)。その働きのプロセスを外部から眺めていると、因果的に行われているかのようにみえるにすぎないのである。

 コンピュータも同じである。コンピュータの推論には、心理学的な法則はないが、コンピュータは定められた論理に従って作業をするのである。論理はここでは心理とは別の次元で働くのだ。人間の思考もまたコンピュータと同じようにに働いているのである。いずれにしても「イデア的な評価と因果的説明はあくまでも異質のものである」(同)のである。

□結論
 フッサールはこの二つの異議と二つの混同を指摘して、結論を示す。「心理学主義的論理学者はイデア的法則とリアルな法則、規範化的規整と因果的規整、論理的必然性とリアルな必然性、論理的根拠とリアルな根拠の間の、永遠に橋渡しのできぬ根本的で本質的な相違を見落としているのである」(p.89/68)。

Die psychologistischen Logiker verkennen die grundwesent lichen und ewig unüberbrückbaren Unterschiede zwischen Ideal gesetz und Realgesetz, zwischen normirender Regelung und causaler Regelung, zwischen logischer und realer Nothwendigkeit, zwischen logischem und Realgrund. Keine denkbare Ab stufung vermag zwischen Idealem und Realem Vermittlungen herzustellen.