キリスト教と「生活の倫理的組織化」--山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(7)

山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」の七回目。今回からウェーバーの理論の肯定的な側面が考察されます。まずはキリスト教と「生活の倫理的組織化」の問題について

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■3.ヴェーバーの宗教社会学と「儒教とピューリタニズム」論文
□A.キリスト教と「生活の倫理的組織化」
ヴェーバーによれば,儒教が支配的な中国においては「超現世的・倫理的な要求を突きつける神の倫理的預言というものが……全く欠如していた」ので中国の民衆の生活においては「現世」に対する緊張関係など,およそ生じることがなかった(49)。これに対して,キリスト教のような「預言者的または救世主的宗教は……現世とその秩序に対して,尖鋭な緊張関係というだけでなく,持続的にもそうした緊張関係に立つことになった。この緊張関係は,本来的な救済宗教の性格を強く帯びていればいるほど,ますます激しいものとなった(50)」。

 この緊張関係に対して救済宗教がとりえる立場はさまざまである。宗教と現世との対立が決定的となるのは,宗教思想が神秘論を展開させることによって「現世逃避的瞑想」が志向される場合や,逆に,別の展開によって「現世内的禁欲」が志向されて,現世の改造が目指される場合である。これら両極端のあいだには,「現世逃避的禁欲」と「現世内的神秘論」という立場が理論的に想定される(51)。

 ヴェーバーは,「禁欲的」プロテスタントにおいてのみ,現世の克服という課題が日常生活の中で組織的に遂行された,という。逆にいうと,プロテスタントの中でも,「生活態度の倫理的組織化・規律化」が徹底されなかったグループがある,ということになる。それは,第2章Bで引用した『倫理』論文中の定義を念頭に置くならば,ルター派イングランド国教会派,そして神秘主義セクトである。ヴェーバーによれば,キリスト教は本来「現世」に対して尖鋭な緊張関係に立つ宗教である。

 そうすると問題は,中世のカトリック教会や「非禁欲的」なプロテスタントにおいて,「生活態度の倫理的組織化・規律化」への志向を阻害した要因は何か,また,それを取り除いた条件は何か,ということになろう。ヴェーバーの宗教社会学に則して言うならば,その第一の阻害条件は,カトリックの「施設恩寵としての教会」という理論であり,第二の阻害条件は有機体的社会理論であった。結論を先取りして言えば,ルターによる宗教改革の原理は,カトリックの施設恩寵説を真っ向から否定するものであったが,ルター派イングランド国教会はこれを実践の面で徹底することができなかった。これらは,恩寵施設としての教会を国家教会として存続させ,それを絶対君主の庇護の下に置いた。

 他方,「禁欲的」プロテスタントは,施設恩寵説を完璧に破棄し(「呪術からの解放」と誤って解釈された事態),有機体的社会理論を内側から揺るがしていったのである。ヴェーバーは『宗教社会学』の中で,「施設恩寵」を次のように説明する。

 「施設恩寵Anstaltsgnade の領域では,神または預言者の創始によるものとして承認された一つの施設共同体が,たえず恩寵を授与し,それによって救済が実現されるのである。……それの首尾一貫した運営に際しては,つねに次の三つの命題が重視される。1,教会の外に救いなし。つまり恩寵施設に帰属することによってのみ,人は恩寵を受容することができる。2,恩寵授与の効能を決定するのは,共同体内の秩序にしたがって賦与される職権であって,祭司の個人的なカリスマ的資質ではない。3,救済を求める者の個人的な宗教的資質の有無は,職権の恩寵授与の力を前にしては,全然問題にならない(52)」。

 カトリック教会は,典型的な「恩寵施設」である。恩寵は教会によって独占され,信徒は教会を通して,具体的には聖職者の手を通して,秘蹟と恩寵を分け与えられる。この「施設恩寵」説が「生活の倫理的組織化」を促すものでないことについて,ヴェーバーは次のように説明する。

 「施設恩寵は,ことがらの本質上,次のような傾向をも持っている。すなわちそれは,権威への恭順と服従とを,基本的徳目として,また決定的な救済条件として育成するという傾向である。この場合の生活態度は,各人みずから努力して築き上げた一つの中心からの,つまり内からの体系化ではなくて,むしろそれの外に存在する一つの中心から養分を得るものとなる。このような外にある中心は,生活態度の内容そのものに対しては,倫理的体系化を強いるような何らの作用も示すこともできない(53)」。

 

(49)ヴェーバー儒教とピューリタニズム」『論選』173頁。(50)ヴェーバー「中間考察」『論選』108頁。
(51)同,『論選』104頁。ヴェーバー『宗教社会学』,211~226頁をも参照せよ。
(52)ヴェーバー『宗教社会学』236頁
(53)ヴェーバー『宗教社会学』239頁。