パリのメトロ、操業を開始(1900年)--20世紀の思想と芸術

1900年、パリ万博に合わせてパリでメトロが操業を開始した。入口には当時流行のアールヌーボーのデザインがつかわれた。現在でも残っている。これを残しているのだから、フランスは偉い。

 

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2号線 ポルト ドーフィヌ駅 こちらも同じくギマール作
12号線アベス駅入口と同じく、エクトル・ギマールの手がけたメトロ入口です。 アベス駅入口と、全体の印象は似ていますが、細かい部分がだいぶ違っています。

 

 

以下はhttp://www.seinan-gu.ac.jp/~masimo/paris9.htm

から

 

 

1900年、7月19日、作業開始の20ヶ月後、予定より3ヶ月の遅れだけでメトロの1号線が開通した。路線は東のマイヨー門から西のヴァンセンヌ門まで、市の非常に象徴的な2つの門を結んでいた。開通は、本来、7月14日のバスティーユの日に予定されていたが、警視総監が混乱を恐れて延期させたものだった。しかし警戒の必要は全くなかった。というのも、テープカットもない式典は午後遅くに行われ、地元の役人が何名か出席しただけであった。せっかく念願の地下鉄が完成したのに、市民の関心は意外にも薄かった。当時の「フィガロ」紙も地下鉄開通に関する短い記事を載せているだけで、取材した記者たちは取るに足りないことばかりに注目していた。例えば「駅舎は地下倉庫に似ている」とか「消毒薬の臭いが強い」といったことである。ただ、開通したその日、偶然にも夏の非常に暑い日であったため、すべての記事は「トンネルは涼しくて心地よい」と強調している。それにそれまでのパリの人々の足であった馬車が時速7kmだったのに対し、地下鉄は25kmの速さで、客席もたっぷり設けられているため乗客は全員座ることが出来た。夏は涼しく、心配されていた悪臭や空気不足もそれほどひどいものではなく、だんだん人が集まるようになっていく。すっかり楽しんでいる乗客たちを見て、ビヤンヴニュはほっとなで下ろすと同時に、誇らしい思いを抱いたことであろう。また、それから後、移民を含む人口増加にともない、郊外に移り住む人も増えだんだん地下鉄の需要は増し、路線も拡大していくのだった。

 

 

デザイナーのエクトル・ギマールの作品を次のサイトでみることができる。

Hector Guimard architecte art nouveau

 

 

 

 

détail d'un potelet

 

candélabres et signalétique

 

 

candélabre

Piliers et cartouches