ロシアで社会革命党の結成(1901)--20世紀の思想と芸術
社会革命党(しゃかいかくめいとう、ロシア語:Партия социалистов-революционеров パールチヤ・サツィアリースタフ・リヴァリュツィアニェーラフ)は、ロシア帝国で立ち上げられた政党である。略称でエスエルまたはエスエル党と呼ばれる[1]。
歴史
結成
ナロードニキの流れを組む革命政党として、グリゴリー・ゲルシューニ、ヴィクトル・チェルノフらにより1901年に結成。その中でテロ活動を担う社会革命党戦闘団(Боевая организация партии социалистов-революционеров)は、ドミトリー・シピャーギン(1902年)やヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)やセルゲイ大公(1905年)等の要人を暗殺した。1909年に戦闘団のリーダーのエヴノ・アゼフが秘密警察オフラーナのスパイでもあったことが発覚。
戦闘団のサブ・リーダーのボリス・サヴィンコフは亡命して自由・祖国擁護同盟(Союз защиты Родины и Свободы)を組織し、ロシアに潜入したのち1917年の二月革命後に誕生したケレンスキー率いる臨時政権に仕えたが、ラーヴル・コルニーロフの蜂起への関与を疑われて党を除名された。
大使の陰謀
マリア・スピリドーノワ率いる社会革命党左派(Партия левых социалистов-революционеров、左翼社会革命党、左翼エスエル)は、ボリシェヴィキと共にロシア十月革命後の革命政権の主要な一翼を担うが、1918年にブレスト=リトフスク条約締結に反対し、7月6日に駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(Wilhelm von Mirbach-Harff)、7月30日にキエフ軍集団司令官ヘルマン・フォン・アイヒホルンらを暗殺した(社会革命党左派の蜂起)。
1918年8月30日のファーニャ・カプラン(Фа́нни Ефи́мовна Капла́н)やイギリス諜報部員ブルース・ロッカートとシドニー・ライリーらが共謀したレーニン暗殺未遂事件(Покушения на Ленина、Lockhart plot)をはじめ、反ボリシェヴィキの闘争をサヴィンコフは継続する。
チェーカーは、一連の事件を「大使の陰謀」(заговор послов、Ambassadors' plot)と呼び、1918年11月に欠席裁判でライリーらは死刑を言い渡された。
その後
非合法の反ボリシェヴィキ闘争を継続している地下アナキスト団と連携して抵抗運動を続けるが、その後、武装蜂起し、弾圧されたため多くが逮捕・処刑されるか海外に亡命した。人民委員としてボリシェヴィキ政権内に残った党員たちも、1930年代半ばの大粛清により殺害された。
著名な人物
- ヴィクトル・チェルノフ
- マリア・スピリドーノワ
- アレクサンドル・ケレンスキー
- イサーク・シュテインベルク(Исаак Штейнберг):ボリシェヴィキ=左翼エスエル連立政権時代の司法人民委員。亡命後回想録を発表。
関係書籍
- サヴィンコフ『テロリスト群像・戦闘団の全貌』
- ニコライェフスキー『革命のユダ・アセーフ』
- シテインベルク『左翼エスエル戦闘史』
- ロマン・グーリ『アゼーフ』(1959年)