義和団事件(1900年)--20世紀の思想と芸術

義和団事件は、中国の清朝という体制の無力さをさらけだす。民衆の反乱にのっかって西洋に対抗し、西洋の要求にのっかって民衆運動を弾圧する。体制の守旧派と洋務派の対立は解決できず、もはや軍閥の割拠によってしか解決はないかのごとくである。この事件をめぐる書物が面白い。以下はWikiから

 

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

義和団事件
ぎわだんじけん

中国、清(しん)末の1900年に起こった排外的農民闘争。北清(ほくしん)事変とも団匪(だんぴ)事件ともいわれる。山東省付近に清の中期から白蓮(びゃくれん)教の分派で義和拳(ぎわけん)という秘密結社があり、彼らは日本の空手(からて)のような拳術を習い、呪文(じゅもん)を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかないと信じていた。日清戦争(1894~95)後、列強の侵略は中国を分割の危機にさらし、また安い商品の流入などで農民の生活は破壊された。とくに外国の勢力を後ろ盾にして特権をもったキリスト教の布教は反感を買い、排外的な機運が高まった。義和拳は、教会を焼き、教徒を殺す反キリスト教運動のなかで、多くの破産した農民と結び付き、急速に発展した。
 一方、列強の侵略は、支配層のなかにも守旧派と洋務派という対立集団をつくりだした。守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたいこう)らの満州人貴族層が中心で、洋務派は、列強に頼って新たに力を伸ばしてきた李鴻章(りこうしょう)らの漢人の大官僚が中心であった。守旧派は、義和拳を弾圧しきれないのを知り、逆に利用して列強や洋務派に対抗しようとした。彼らは義和拳を、農村の自衛組織である団練(だんれん)に組み込み、義和団と改称させ半合法化した。義和拳も「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清朝を扶(たす)け、外国を滅ぼす)のスローガンを掲げ、排外を主目的とした。しかし、1899年の末に洋務派の袁世凱(えんせいがい)山東巡撫(じゅんぶ)に就任すると、義和団は弾圧されたので、河北省に流入し、やがて大運河、京漢(けいかん)鉄道沿線一帯に蔓延(まんえん)するようになった。さらに短期間に華北全省、満州中国東北部)、蒙古(もうこ)に拡大し、外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。清廷の態度は始終動揺したが、守旧派の指導下に義和団利用策をとり、1900年6月、ついに列強に宣戦を布告した。
 北京(ペキン)にまで侵入した義和団は官軍とともに列強の公使館を攻撃し、北京や天津(てんしん)では義和団員が町にあふれ、その発展は頂点に達した。近郊の農村から北京に集まった義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け、八卦(はっけ)を用いて隊伍(たいご)を分けた。全体的な指導部はなく、町ごとに拳壇(けんだん)を設け、その壇が義和団の単位であり、大師兄(だいしけい)とよばれる宗教的指導者が壇の責任者であった。10代の少女も紅灯照(こうとうしょう)という組織をつくった。
 他方、揚子江(ようすこう)以南を支配していた洋務派大官僚は義和団の発展を恐れ、北方からの波及を厳しく取り締まった。このため、北清事変ともいわれるように、運動は中国の北方に限定された。イギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本、イタリア、オーストリアの8か国は連合軍をつくり、大沽(タークー)砲台、天津で官軍と義和団を破り、8月に北京に入城し、籠城(ろうじょう)55日に及んだ公使館員を救出した。西太后と光緒帝(こうしょてい)西安に逃れ、失脚した守旧派にかわって実権を握った洋務派は、連合軍に協力、義和団の残部を虐殺した。翌1901年、北京議定書(辛丑(しんちゅう)条約)が成立し、中国の植民地化がいっそう深まるとともに、以後、膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになった。
 今日の中国では、義和団運動は反帝国主義の輝かしい農民闘争と評価されている。義和団運動がさまざまな後れた点をもっていたとしても、なおその評価は妥当であろう。一方このとき、ちょうど、イギリスはブーア戦争、アメリカはフィリピン独立戦争鎮圧に忙殺されていて中国まで手が回らなかった。そのため結局、ロシア、日本の2国が連合軍の主力になった。日本軍の目覚ましい働きぶりは欧米列強に認められ、以後、日本は「極東の憲兵」の役割、すなわち東アジア人民の民族解放運動を抑え込む武装力としての道を歩むことになる。またロシアは、義和団鎮圧を口実に全満州を軍事占領し、その後も容易に撤兵しなかった。このことが数年後の日露戦争の直接のきっかけになっていった。[倉橋正直]
『スタイガー著、藤岡喜久男訳『義和団』(1967・桃源社) ▽柴五郎・服部宇之吉著『北京籠城他』(平凡社東洋文庫)』

 

 

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義和団の嵐 (西太后)

1995/2
高 陽鈴木 隆康
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中国、1900年―義和団運動の光芒 (中公新書)

1996/4