元における紙幣--横山俊雄「中国に於ける紙幣の発展」(5)

横山俊雄「中国に於ける紙幣の発展」の第四章。元で紙幣の流通が成功した原因が考察されます。最終回。

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第四章   元に於ける交鈔

北宋は金に滅ぼされ、 王室の一部は揚子江地帯に移り新たに南宋が成立 した。南宋の紙幣は、 地方により名称が異なり全国的に通用したが、 北宋の交子の末期と同じく健全な運営はなされなかった。 このため紙幣の健全な発展はみられないので省き、 金および南宋を滅ぼした新王朝元の紙幣に入る。 元はモンゴル民族の統治する国家で、 ここに中国全地域が始めて異民族の統治下に入った。

 

(1) 交鈔の制度

元はまず金を滅ぼし、 金の制度にならい紙幣を発行した。 金は紙幣を濫発し滅亡の原因となり、 南宋と同じく紙幣の健全性はみられなかったのでこれも省いた。

「元史世祖本紀、巻1、巻11」、および「元史食価志」によると、元では国初1264年に「中統鈔」を作り、その後1287年に至りインフレーションを引き起こし、 これを終息するため中統鈔を5分の1に切り下げ、新しく 「至元鈔」 を出した。     この両紙幣は元末まで流通した。

元では銅貨を作らず、 また銅貨の使用を禁止した、 このため価格の低い紙幣があるのが元の紙幣の特徴で、すなわち10、 20、 30、 50、 100、 200、500文、および1、 2、貫文の9種の紙幣があった。なお至元鈔はこのほかに300、 5文があり11種の紙幣があった。   (註27)

元はそれ迄正貨であった銅貨を使用禁止とし、 国初より約30年は鈔に対する金銀の公定価格を定めた。 しかしこの間金銀の市買を禁じた (つまり取引きに使用できなかった) 。 宋でも金銀は相場で変動し正貨とはなり得なかった。

(註28)

元の制度からみて、 また歴史的にみて銀が正貨となるのは明を待たなくてはならなかった。 銅貨を正貨でないとした以上、 鈔が正貨と考えるほかない。

なお金銀解禁以後は前田直典氏の考証によれば鈔は銀に対し値下がり し、 元末まで約7 0年銀は国初の1 5ー20倍に騰貴したとされている。

一方最近発掘された土地証書は、 鈔の対銀相場は元末でも国初と大差なかったことを示している。 この土地証書の歴史的評価はこれからであるが、 鈔が元末まで正貨として通用していたことは確かであろう。   (註29)

元の紙幣は宋と異なり紙幣の通用期限を示す界はなかった。 このため当時の紙は丈夫でないため、 しばしば交換が必要となり、交換には1000文あたり30文が手数料と して割り引かれた。 しかし交換には各路にある平準庫または行用庫に行く必要があり、 不便なので交換が余り行われず、 このため紙幣の破損具合で相場がついたといわれている。 しかも鈔庫に於ける交換はあまりスムースではなかつたらしい。   (註30)   (註31)   (表4)

また元では1268より1304年の間、金銀は市中での販売が禁ぜられていた。 この間は平準庫に鈔を持って行き、 手数料を払い金銀と交換しなければならなかつた。 なおマルコ ・ ポーロは金銀細工をするとき貴族は鈔庫に行き、 必要な額の紙幣を提出し交換するとしている。   (註32)   (註33)

「元史本紀17」   (1292年)にも「鈔120錠で庫より銀950両」の記録がある。 しかしどの程度容易に金銀を交換できたかはわからない。 特にインフレとなってからは交換できなかったのではなかろうか。 1 304年金銀の私買を解禁するとともに平準庫を行用庫に変え、 金銀の兌換を中止してしまった。

(註34)   (註35)

 

 (2) 制度からみた鈔の紙幣性

鈔は従来正貨であった銅銭を廃して鈔を正貨と した。 銅の不足は唐末よ り南宋までの各王朝を悩ませてきた。 金銀も同様であった。 貴金属は唐末には、 支払い手段でしかなかつたが、 1 0 0年弱のちの北宋となると租税中に占める銀は時価でみて6パーセントに達し、銀が通貨として使われ始めたことうかがえる、銀も宝物から使う物へと変わったとみてよい。 北宋の末期ともなると租税中に占める銀納の量が飛躍的に向上しているが、 商工業の発展もまたすばらしく、 このため租税全体の向上も大きく、 租税中に占める銀の割合には変化がみられなかつた。金は銀と異なり依然として宝であった。   (註36)

この貴金属不足の特殊事情のためやむを得ず、 元はこの時代と して他に類例のない紙幣を正貨とする制度をとったのであろう。 紙幣に通用期限はないが、 使えなくなりかかった紙幣と新しい紙幣との交換は実際問題として必要で、 そのときに手数料を取ったのは手形的性質の残渣であつた。

鈔は元の初期30年間銀と公定価格で交換できた、 しかし残りの70年間は交換を中止した。 鈔は無兌換紙幣となった。 ただし行用庫には銀が蓄蔵されていた。(註35)   (註40)

(3)鈔の流通

制度はいくらよくても通用しなければ紙幣とはいいえない、 流通しなければ玩具か紙屑にすぎない。 以下政府はどのような方法で鈔を流通させる努力をしたか、その流通期間は何年間続いたのか、 さ らにどの範囲まで流通したのかにつき検討してみたい。また (4)の項目でインフレーションについて検討し、元政府の為政者がとった紙幣の運用とその方法を述べたい。

1) 流通への努力

南宋攻略後元の世祖フ ビライは江南経済界の経済的混乱を防ぎ、 併せて南宋市場で内乱外征に必要な軍需品を購入するため、 既に流通している宋の滅亡で無価値となった交子と中統鈔を並び流通させ、 あるいは交換を図ったと思われる。

「元史食貨2茶法」 1275 (至元12年の条)によると 「交子50貫を中統鈔1貫に準ず」 とある。

またこの時の紙幣の発行量をみると1276年に始めて100万錠を超えた。これは1273年は約10万錠であったことを考えると著しい増加で、商工業の発達した江南の大市場に中統鈔が大量に浸透したことがうかがえる。   (グラフ1)         さらに上記元史茶法と紙幣発行量急増との両者を併せ考えると、 関係があると考えられる

これは南宋の膨大な旧紙幣の存在を考えるとき、 旧交子を認めたことが中統鈔の爆発的大発行の1原因であろう。

南宋侵略戦等の多方面に渡る戦争がもう1つの原因であった。 いずれにせよこのころが1287年の大インフレーションの入り口であった。

(註37)   (表2)   (グラフ1)

そのほか税、 専売品の購入等政府への支払いは銀または鈔納が許された。 一方政府支払いは鈔で行われ積極的に鈔の流通を促した。   (註3 8)

鈔の流通は強大な国家の強制通用力に負う点が多いとはいえ、 紙幣の交換で商人に恩を売り軍需品を購入し紙幣を散布し、 一方では膨大な専売品の販売や税の納入などで鈔の吸収を図り、 流通経路の形成に努力 した。

2   流通期間はどの時代まで続いたか

これについてはいろいろの憶測がなされてきたが、 その主な説は1 2 6 0ないし1270年ごろは既に無兌換紙幣となり、一方続いてインフレが起こり紙幣は単に政府との授受に使用されたにすぎないともいわれてきた。

また元史には紙幣の発行高の記録は元末まで記録されているが、 残念なことに古い紙幣をどの程度焼き捨てたかの記録がない。 一方偽造紙幣の記録があ り このため宋の末や金の末のように国中に紙幣があふれ、 100または200分の1に幣価が下落したのではないかとも考えられた。

しかし、 新中国になり各種の建設事業が行われ、 地下から多くの遺物が発見されるようになり、中国史も新しい時代に入った。   「元代の地契」が施一揆氏により 「歴史研究」   (1954ー9) に紹介された。 これは土地の契約書でこの内容から、 元末まで中統鈔が相当の価値を持っていたことを示している。 なおこれには愛宕松男氏により読み方の訂正が出されている。   (註29)

要は1336年の土地取引きで、中統鈔60錠で買った土地の半分強を1366年に花銀150両で他の人物に売り渡したことを示す契約書類である。上記の土地売買の行われた年代の差、 前後30年を一応無視すれば、 中統鈔30錠強が花銀150両と等価ということになる。すなわち花銀1両は中統鈔10貫強となる。 これは少なくとも元末まで鈔が価値を持っていたことを証明している。

1287年元史によると花銀1両は至元鈔2貫と定め、中統鈔はその5分の1に定められたので花銀1両は中統鈔1 0貫であつた。 この契約書によればあまり大きな値下がりなく、 また不動産取引きに利用されていたことがわかる。

元末に於ける中統鈔の価格は別と しても、 鈔は元のほぼ最末期に至るまで通用したと認められる。

3   流通範囲

前田直典氏によるとマルコ・ポーロの 「東方見聞録」 に紙幣の流通が記されている地方および、 紙幣の発行および初期金銀の交換を した行鈔庫、 平準庫のある地方が流通範囲で流通をみなかつた地方は蛮夷の地と いわれた地で、 今日 の雲南省貴州省、 慶西省西部、 四川省南部、 湖南省西南の1部でそれらの地の通貨は子安貝であった。   (註39)   (表3)

元以外で通用のはっきり しているのは高麗である。 すなわち流通範囲は殆ど元の全領域におよぶ。

4     使用方法

文献に表われた例は前田直典氏によれば、   (イ) 質入れして鈔を手に入れた、(ロ) 鈔で本を買い、 また猪の大臓を買い、   (ハ) 鈔を金銀とともに資本とし、または財産と した、 等の例を上げている。

上記不動産の売買記録も鈔の使用例であろう。 また政府の支払い、 専売品の販売および政府への税の納入は人民にすべて鈔で行なわせた。

3項を纏めれば元は鈔の流通に成功 し、 元末までほぼ全領域で公私にわた り鈔を流通させた。

 

 

(4) 物価への配慮とインフレイション

紙幣は発行が容易なため財政的に使用され易く、 このため発行し過ぎてインフレをひき起こ し人民の信を失い、 このため金および宋が滅亡した一つの原因であった。

元は紙幣の発行に慎重であった。 しかし世祖フビライは河南を手に入れると、経済的に河南市場に入るため、 南宋の膨大な交子50に対し鈔1で交換した。 このためと思われるが、紙幣の発行量は1273年10万錠より1276年100万錠へと増えた。 ここで間違いなくインフレが始まった。 さらにフビライは内乱のため、 冷涼な内モンゴルの地で血で血を洗う内乱を戦いながら、 さらに南宋の残党と戦い、その上に海を渡り日本を2回、ベトナムを3回、ジャワを2回攻めた。 この費用はさらに膨大であった、 これについては63年度放送大学卒論「元朝世祖時代の軍事費と紙幣発行高」 で述べた。

このため中統鈔の発行高は1287年(至元24年) 1000万錠に近づき市場に紙幣がだぶつき、ついにインフレーションになつた。   (グラフ1)   (表2)

元は国初であり国力が充実していたので新紙幣を出し、 この難局を切り抜けることができた。 まず戦いを止める一方で幣価を5分の1に切り下げ新しく至元鈔を出し、 さらに兌換はしなかったが平準庫に銀の蓄えを増やし信用の向上を図った。 また紙幣の発行を控えたので1 2 9 5年には諸物価は落ち着いた。

(註40)

前田直典氏によると、 元政府はこれに懲り物価が上がると紙幣の吸収を図った。紙幣の吸収には塩科すなわち塩の専売価格の引き上げによった。 このため元初に比べると元末の塩科は1 5倍に達した。 また紙幣の財政への使用は極力控え財政の赤字は塩引 (塩の専売価格)に頼った。   (グラフ2)

これ以後また物価はだらだらと上がりながら1320年ごろピークに達し、また元末に向かい少し下がり気みで高原状態となった。 銀価格を見ると1310年は国初の10倍、 1320年は20倍、 1330年は12、 5倍、 1345年は1 5倍であった。 米価は収穫によるので難しいが、 銀とほぼ同じ傾向で価格が上昇している。   (グラフ2)

元の末ごろの物価は前田直典氏によると元末の人、 「武祺」が「1324から1331年に至る8年間は紙幣を印刷すること少なく、焼却すること多く、鈔の流通が絶えて少なくなつた」 とし物価も落ち着き、 この時代は元史で 「天下無事、号して治平と称す」 と讃えられている。

元の滅亡に際しては各王朝の滅亡と同様に紙幣は紙屑となつた。

すなわち1287年インフレの克服後に金銀を解禁し、元政府は1304年平準庫を全部行用庫に変え、 紙幣と銀の交換を中止してしまった。 政府は無兌換紙幣がだぶつき物価を押し上げることに神経質なほど注意を怠らなかった。 物価が上がると塩科で紙幣を吸収し約100年に渡りインフレーションぎみながら2種の紙幣で乗り切った。 しかし元末の人、 武祺は 「紙幣を吸収しすぎ市中に紙幣が減り紙幣制度が崩れた」 ともいっているのは興味が深い。   (註41)

 

 

(5) 鈔は紙幣といつてよいか

まず制度からみた範囲で、 交換手数料に疑問が残るが、 紙幣とみてよいのではないか。

流通面からみて、 公私に渡り十分な広さで長期使用され紙幣とするに十分である。

運用面では、 物価への配慮がされインフレも元末まであまり甚だしくなく前朝の失敗が生かされている。

宋より始まった紙幣化した交子は、 元の鈔でほぼ完全な紙幣となった。

 

(6) 元が塩科を紙幣の価格維持に使用できたわけ

次章のために塩科を説明しておく。 塩科は漢の武帝が周辺民族との戦いに塩を専売品にしてその専売利益をこれに当てて以後、 各王朝はこれに習った。

しかしモンゴルは周辺民族を平らげ、 さらに全中国を統治下に収め元を建国した。 モンゴル自身が周辺民族であったため外敵がなく、 塩科を軍事目的以外の財政に使用できた。 これが紙幣制度に元が成功した原因である。