問題提起---山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(1)

 『儒教道教』の論文に関連のある山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(商経論叢, 44(3-4) )を読んでみましょう。今回は序のところから。
ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文から何を学び,何を捨てるか」という問題が提起されています。

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山本通「ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文に関する一考察」(商経論叢, 44(3-4) )

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/9303/4/44%283.4%29-1.pdf


■1.はじめに
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下,『倫理』論文と略記)に始まるヴェーバーの宗教社会学は,『世界宗教の経済倫理』の研究へと発展していった。ここでのメインテーマは,なぜヨーロッパにおいてのみ「(形式的に)自由な労働の合理的・資本主義的な組織(1)」が生まれ,他の地域では生まれなかったのか,である。

 ヴェーバーは「経済的合理主義は……その成立に際しては,特定の実践的・合理的な生活態度をとりうるような人間の能力や素質にも依存するところが大きかった(2)」と指摘しつつ,「理念というものが一般に歴史の中でどのように働くか(3)」を検討するために,世界宗教,すなわち,儒教道教ヒンドゥー教と仏教,さらにユダヤ教の宗教倫理を,キリスト教のそれとの比較の上で,順次考察していった(4)。

 本稿で取り上げる「儒教とピューリタニズム」論文は『儒教道教』のまとめの部分にあたり,中国の文化史の特徴をヨーロッパのそれと比較して考察した興味深い論文である。実際,この論文は,日本ではよく読まれてきた。1940年以来,別々の訳者によって四度,翻訳されてきたのである。この論文を高く評価したのは,丸山真男大塚久雄らの「戦後啓蒙」の思想家たちであった(5)。特に大塚は『社会科学の方法:ヴェーバーマルクス』(岩波新書,1966年)の第三章を「儒教とピューリタニズム」論文の紹介・解説に充てている。

 ポスト・モダニズムが歴史学会の主流になりつつある今日,我われがマックス・ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」論文から何を学び,何を捨てるか,を考えることは,彼の学問の中で何が古典としての普遍的な価値をもち,何がもたないか,を問うことと同じであろう。したがって,最初に必要となるのは,彼の方法論,価値観,認識において,彼が時代の制約を受けている部分を洗い出して,これを批判するという作業である。

 まず。具体的には,ヴェーバーの理念型的方法論の長所と限界,ヴェーバーの「オリエンタリズム」すなわち,西洋文化についての優越感を基にして作られるステロタイプ化した東洋文化観,そして,ヴェーバーが依拠した当時の(つまり今から百年前ごろの帝国主義時代の欧米の)社会科学の水準と傾向の問題が,検討されなければならない。

(1)マックス・ヴェーバー「宗教社会学論集:序言」大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房,1972年(以下,『論選』と略記)15頁。
(2)同『論選』,23頁。
(3)マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神大塚久雄訳,岩波文庫,1989年(以下,『倫理』と略記)134頁。
(4)マックス・ヴェーバー世界宗教の経済倫理:序論」『論選』33頁では「世界宗教」の中にイスラム教が含まれる。しかし,ヴェーバーイスラム教についてのまとまった叙述を行わなかった。他方ユダヤ教は「世界宗教」ではないが,キリスト教イスラム教の歴史的前提を含んでおり,また,西洋近代の経済倫理に発展にとって歴史的な意義を持つと考えられるので研究対象とした,とヴェーバーは同じ個所で説明している。
(5)これらの点については,恒木健太郎先生から教えていただいた。四種類の翻訳とは,細谷徳三郎訳『儒教道教』弘文堂書房,1940年;大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論集』みすず書房所収,1972年;森岡弘通訳『儒教道教』筑摩書房,1970年;木全徳雄訳『儒教道教創文社,1971年である。