「ヌガラ」書評:矢 野 秀 武

 

 

クリフォード・ギァーツ 『ヌガラ一19世紀バリの劇場国家一』

小泉潤二  訳  みすず書房、 1990年、 xi+279+xli i.pp.3605円

矢  野 秀 武
 アメ リ ヵの人類学者C ・ ギァーツによって1980年に書かれた本書は約10年を経た今日ようやく訳書として我々の手元に届くことになった。 インドネシアに位置するバリ島の19世紀の国家ヌガラの特徴を描いた次の文章は今日に至るまで多くの論者によって引用され、すでに1訓染み深いものにさえなっている。 「バリの国家は、 王と君主が興業主、 僧倡が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった。  ・・・華麗極まる火葬や削歯儀礼や寺院奉献式典や巡礼や血の供犠は、 政治目的のための手段だったのではない。 これらの儀礼はそれ自体が目的であり、 そのために国家があった。」 (12頁)
  『ヌガラ』 に関する論評も青木保、 中村雄二郎や山口昌男の各氏を初め、 様々の著名な論者によって行なわれており、 さらに何ほどかの論評を付け加える必要があるのだろうかとも思われる。しかし、これまでの論評の多くは、おもに国家の演劇性(もっとも、それがとりわけ重要な点なのではあるが) のみを論じてきた嫌いがある。 そこで、 ここではこれまでの書評などがあまり取り上げていない 『ヌガラ』 における諸社会集団や村落と国家の関係などの民族誌的記述に比重をおいて、 論を進めることにしたい。 実際、 本書の記述の半分以上がこれに費やされているだけではなく、 またそれは 「ヌガラ」 の演劇性の理解に欠かせないものであると思われる。
   19世紀のバリにおいては儀礼や地位が重視さ.れ、 他方で国家の頂点から下方に向かう支配の流れは極めて緩やかかっ不徹底であった。本書は、バリにおけるこのような特殊な政治体系の様相を理解することを主たる目的としている。 しかし著者はさらに射程範囲を拡張して、マタラムやマジャパイト等の伝統的インドネシアの巨大国家、ついでビルマ(ミャンマー)やタイ等の「東南アジァのインド的国家」全般、さらに西洋中世近世の国家や先植民地時代アフリカの国家の理解になんらかの貢献をもたらしうるような1つのモデルとしてもバリの国家「ヌガラ」 を描いている。 このような意図のもとに本書は5つの章と結論から構成され、 各章では方法論、 政治的価値と地誌、 支配階級の内部組織、 「多元的集団性」 を持つ村落と支配階級との関わり、 政治的な諸儀礼の解釈などが議論されている。 まずは序章におけるその方法論から取り上げることにする。
 先植民地時代のインドネシアは、いわゆる「東洋的専制国家」支配が広域に渡り、さらにそのよ うな巨大な権力のいくっかが拮抗するよ-うな国家図式とはかけはなれたものであった。 むしろそこに現われては消えていったものは数百あるいは数千にもぉょぶ諸政治体系であった。これが「ヌガラ」(ナガラ、ナガリ、ヌグリ等)とよばれる小君主国家群である。「ヌガラ」とはサンスクリット語の「町」が兀の意であるが、インドネシア語では町、宮殿、都や国家さらに(古典)文明をも意味している。対語としては村落部、領域、村、場所、従属、統治地域などを表わす「デサ」がある。
   ヌガラの歴史研究はこれまで資料の散逸や曖昧さによる粗雑な歴史記述、 そしてョー ロツパをモデルとした非現実的な解釈などが横行していた。 限られた資料から出来るだけの情報を引き出し、 個別史実の仮説的再構成を打ち立てては解決の見通しのない議論を交してきた。 著者はこのような歴史記述における編年史・個別史の方法を全く不必要かっ無益なものと考えているわけではない。 しかしそれを現在のバリ史においては実り少なきものとし、 自らの人類学的な方法に重きを置いた歴史記述を試みている。 それは従来のような諸王朝の興亡と変遷や出来事の連続としての歴史ではなく、 諸々の活動が複雑に絡まり影響を与えっつ構造的パターンを形成し、 さらにそれが徐々に緩やかにそして不明瞭な形で新たな構造的パターンに変容するという歴史を描こうというものである。 このような発展史的アプローチに基づき社会文化過程のモデルを構成し、 それを用いてこそ散逸し疑わしい断片的資料を解釈できるとしている。 そのための3つの手法として、 他地域との比較、理念型的パラダイ ム、 そして現在における社会や文化の構造や機能の詳細な記述を行ない、そこからかっての在りし姿を読み取ろうとする民族史学的アプローチを掲げ、 第3の手法を主要なものとしっつこれら3手法を相互補完的に扱うことを述べている。 そしてこれらの歴史記述のアプローチのもと現地調査と文献資料の双方を扱つて19世紀バリの国家・政治の様相を詳細に記述している。                                                                        
 第1章においては劇場国家 「ヌガラ」 の主権や国家の基盤となる根本的な観念としての「模範的中央の教義」 が説明されている。 劇場国家とは先にも示したように、 権力的な統制や、 搾取に基づく支配が主たる関心であるような国家ではなく、 宮廷を中心とする国家儀礼それ自体が政治そのものでありその目的であるような国家のことを意味する。 そこでは儀礼は支配の道具でも国家維持の仕掛けでもない。 劇場国家では権力のほうが祭儀に仕えていたのである。 このような国家体系を背後から支えていたのが「模範的中央の教義」- と呼べるような世界観・秩序観念であった。それは、 「王宮=都とは超自然的秩序の小宇宙・ ・・であると同時に、.それが政治秩序の有形的具現であるという理論である。」(13 頁) っまり国家儀礼における超自然的秩序の描写が国家全体の現実の姿として体現しうるという、描写=実現の変換理論である。そして、このような意味を持つ国家儀礼が、「ヌガラ」の特徴の1つとしての「模範的国家儀礼の求心力」である。(これらに関するより具体的な内容は後述する。)ここで超自然的秩序と言われる事柄は2つの相互に関わる事象を示している。第1に、1343年にジャワ東部の大王国マジャパイトがバリを侵略し、文明をもたらし、 現在のバリ人の祖先となったという神話における原初的な王国の秩序・文明性。 第2に、インドの神々の超時間的世界。バリ人とりわけ支配階級は神々と系譜的な繁がりを持ちながらも、 歴史的気まぐれによってカースト的な称号体系の中で地位沈降してきた。 彼らはその地位を在りし日のように再現することを求めたのであった。
 彼らにとって歴史は堕落・分裂の過程である。 その現実的現われの1つとして分裂してさらに権力の分散している諸ヌガラ間の争いがあった。 バリ島中央を東西に走る山並から南北に流れ出る幾筋もの横断困難な河川はこれら小国家群の統一を阻むものであった。 河川に添つて南北に広がるヌガラは同じ河川系列の山側の独立勢力と海側の統一勢力、 さらに河川を跨いで同様に東西対中央のヌガラ間の争いが耐えることなく続いたのである。 ただしこれらの争いは土地をめぐるものではなく忠誠や威信をかけた戦いであった。
 第2・3章においては「模範的国家儀礼の求心力」に対立する「国家構造の遠心力」の細かい記述がなされている。 まず、 第2章で支配階級内部における様々な社会関係が描かれる。 ヌガラはその基本的な政治的目標として先に見たような地位志向を持ち儀礼遂行に情熱を傾けていた。 それゆえこれらと密接に関係する諸社会集団が形成されている。 しかし純粋に権威だけをもってしては原初的な国家の文明の光に満ちた荘厳な儀礼を催すことはできない。 したがってそこに権力 (や財力) をある程度集中させる制度が必要となろう。 著者は、 国家に必要なこれら権威と権力を賄う制度としてそれぞ'れまた2様の制度を記している。 前者においては上流階級と農民階級の峻別、 そして上流階級に見られる 「ダディア」(男系出自集団)内の「地位沈降」の制度が揚げられている。上流階級は全人口の約1 割の力一スト上位3階級からなり、 その階級内部のダディアでも王家や君主の本家からの血族的な距離関係から威信の序列が見られたのである。 ただし実際の威信関係の序列あるいは系譜はその時の実質的な政治権力によってかなり書換えられている。 重要なことはそのような変更にもかかわらず威信関係の枠組みは変わらないということであろう。 後者の権力関係としてはダディア間で見られる政治的あるいは宗教的 「主従関係」 および華商などの少数民族との経済的な「主従関係」が1つ、そしてさらに全島的な文化的画一性を観念的には示したものの、 常に不安定であった 「同盟関係」 が述べられている。 「同盟関係」は諸ヌガラの代表的なダディア間の関係である。
   しかし以上述べて.きた威信と権力は後述するようにいつも寄り添つているものとは限らない。むしろ、威信を持つ者ほど実際的な権力関係から遠ざかることになる。 「ヌガラ」は専制的な権力集中を行なう十分な力を持つていなかった。 そこに「ヌガラ」 のスタティックな構造の枠組み内でのダイナミズムが見られるのである。
 次いで農民階級つま り村落 「デサ」 の政体およびそれと国家の関係について詳述しているのが第3章である。「ヌガラ」の権力・政治の重心は低い。村落の行政や司法、農業生産や治安維持は「デサ」 のレベルでほぼ決定される。支配階級がそこに介入することはあまりない。 ただし農民階級にはいくらかの国家義務や納税等が課されておりそれが支配階級との実質的な繁がりであった。
 「デサ」は1つの確固とした政治組織ではない。また「ヌガラ」と同様に領域的な集団でもない。 それは様々な組織と集団が入り組み重なり合いながら織りなす 「場」 なのである。ギァーツはその様相を「多元的集団性」と呼んでいる。「多元的集団性」としての「デサ」は主として3つの集団を中核として形成されている。第1に行政制度を共有し居住単位でもある 「部落」 (バンジャル)。第2に「部落」 とは全く異なる成員の枠を持つ「水利組合」 (スバック)。 これも独自の政策決定や権力行使や儀礼を行なうがその目的は潅概施設の規制管理である。 つまり生産装置の共有に基づく集団であった。 そして第3に上記2 つの集団と同様統治的要素を持つ民間儀礼の組織である 「会衆組織」 (プマクサン)。 これは神聖さを帯びた慣習であるァダット慣習を細部まで同じくする集団であり、 いくっかの「部落」 の集合から構成されている。 以上の村落政体の主要な集団は相互になんらのかの調整がなされているわけでもなく成員も一致していない。 「デサ」 においても明らかに実質的な権力は分散し政治は連合的であった。 「ヌガラ」 全体においては統治権力は権威の頂点から下方に依託されるのではなく、 「むしろ臣下から小君主へ、 小君主から君主・へ、 君主から国王へと明け渡されていた」 (72頁) のである。
 それではこのような「デサ」に対して、支配階級としての「ヌガラ」はどのように関わっていたのであろうか。著者はバリの諸王国の中からタバナンを代表としてそのいくっかの繁がりを描いている。 まず「儀礼的奉仕」 と 「軍事的支持」 という国家義務を通じての関わり (プルブクル体系) がある。 この関係において臣下つまり村人を従え君主への責任を負つていたのは、 「プルブクル」 と呼ばれる下級官吏であった。 また君主の耕作地における小作労働という関係も存在した。 さらに米による納税関係もあった。 しかしこれら諸関係は必ずしも地域的に集中していたわけでもなく、 また管理装置や対象者もそれぞれ異なっていた。そのため1人の人間が君主Aの臣下であり君主Bの小作人であり、 同時に君主Cに納税するなどということさえも起こりえたのである。 「ヌガラ」 は統治機能に関しても統一性を欠いていたのであった。
 以上に述べてきた「ヌガラ」の「国家構造の遠心力」と表裏の関係を持つのが    「模範的国家儀礼の求心力」 である。 後者は本書の中で最も興味深く議論誘発的な部分なのではあるが、 先にも述べたようにこの点に関するいくらかの論評がすでにあるので比較的簡単に言及する程度に留めたい。                      
   「ヌガラ」 の国家儀礼の背後にはイメージ化された諸観念の2つの結合が存在する。 第1に模範的中心およびその具現のイメージとしての(神の連座としての)「パ・ドマサナ」と(神の賜物あるいは力としての) 「リンガ」 と (神が自らの個別的表現特に支配者に注ぎ込む活力としての)「スクティ」の結合。第2に魂の世界の外側や、経験の周辺に存するものとしての「ブヮナ・アグン」とその逆の内側、中心に存する「ブヮナ・アリット」.の結合。
 王の行なう儀式はこの「ブヮナ・アリット」と「ブヮナ・アグン」を象徴的に結合することにより、 儀礼の示す文化的な秩序と社会制度の秩序が同じである、 あるいは同化するということを意味したのである。 つまりまず君主がシウァ神へ儀礼的に変容するプロセスがある。 神聖化した王は模範的かたちであるシウァ神の活性化・具現となる。.そして同様の、 模範的かたちの模写とそれによる活性化というプロセスが君主から国家、 国家から社会、 社会から個人、へと生じ、 全体的な統一や秩序が生み出されるのである。 このように模範的中央の模倣・力の描写が秩序の実現に結びっくというバリ人の考え、そして「内」と
 「外」 の関係は、 荘厳にして華麗な火葬儀礼や、 寺院の聖化式典および削歯儀礼のような宮廷儀礼 (臣民は国家義務として参加している。) のみでなく宮廷建築などにも表されていたのである。
   19世紀バリの政治思想の主題となったのは、中央の模範性、権力の基としての地位、演劇としての国政であり、 国王の儀礼はそれらを上演したものであった。 しかしバリの諸儀礼にはそれ以上の意味も付加されていた。 彼らにとっては儀礼そのものが競争でもあり権威獲得の手段であった。 それはまさに誇示的浪費であった。 相応の儀礼を催す能力が彼を君主にしたのである。 そしてそのような競争は社会の底辺においてもみられた。 誰もが模写によって地位を高め、誇示によって自分より低い地位の人間との差を広げょうとしていた。 出生による位階制の地位に甘んずることなくそこから上昇しようとしていたのである。
   しかし皮肉なことに儀礼的な活動や規則づくめの儀式によって王は、 儀礼遂行のための権力、人力、財力の動員の組織つまり分散的かつ遠心的な諸制度(出自、主従関係、同盟関係、プルブクル体系、小作制、税制、通商組織)から遠ざかることになる。そして他の君主たちへの依存も高ま り次第にそれら君主たちの儀礼遂行能力が増大することになる。
 「ヌガラ」 の政治体系の安定的枠組みの中で権威・権力関係は躍動していたのであった。
 最後にいくらかのコメントを述べておきたい。政治における演劇的・非支配的側面あるいは儀礼の象徴における現実構成力という剌激的なテーマのもとで構成された 「ヌガラ」の国家モデルとは、 どの程度の一般性を持つたモデルであったのだろうか。 本書における地域研究の立場はもちろん地域そのものの研究にのみ埋没してしまおうというものではない。 むしろ特定の主題をより鮮明に浮きだたせるための戦略的な選択にもとづく地域研究である。 その上で詳細な民族学的記述から 「意味ある現象群の主要特徴を際立たせるような理念型的パラダイム」 (5 頁) を構築したのであった。 しかし同時にそれは個別的事例をいくっか比較してのモデル構成ではなくあくまで個別事例内におけるものであった。 その事例内においてギァーツによる詳細な記述が示したものは、 「模範的国家儀礼の求心力」のみではなく 「国家構造の遠心力」 を含むものであった。 バリにおいて前者は後者があってこそ意味あるものとなり躍動感あふれるものとなる。 このような社会構造の特殊性と深い関わりを持つバリの国家モデルが,他地域の理解にどの程度貢献できるのかを、 本書のみから推測することは難しい。実際、 著者もその判断にまでは踏み込まず議論誘発の役に徹している。
   さらにその国家モデルはあまりにも威信の賛美に偏つた様相を呈してはいないだろうかとの疑問も残る。 そのモデルは諸資料から意味を読み取るという二重の解釈の営みによって構築されているものであるが、 第1の解釈の結果としての資料そのものが、 すでに支配階級の立場からの解釈に多少傾いているのではなかろうか。 本書においては農民階級が上流階級をどのようなものとしてとらえていたのかに関する具体的な記述は極めて少ない。 さらにギァーツが面接調査したインフォーマントのうち、特に重要とされる3人がいずれも上流階級であったことはこの傾きを示唆しよう。
   これ以外にも不明確さを感じる点は多少あるものの、 本書はそれをはるかにうわまわる魅力に満ちたものである。『ヌガラ』は「幾種類もの読み方が可能であるよう留意して構成されて」 (vi i頁) ぉり、 この書評に示さなかった箇所においても読み手に新たな発想を喚起させる事柄は少なく、ない。 その意味でも執筆から10年あまりを過ぎた今日、 本書は 「古典」 の趣さえ有していると言えるのではなかろうか。