米軍の捕虜とされたアギナルド、アメリカに忠誠を誓う(1901)--20世紀の思想と芸術
フィリピン独立までの紆余曲折。日本では山田美妙が「あぎなるど―フィリッピン独立戦話 」(中公文庫)を執筆している。
あぎなるど―フィリッピン独立戦話 (中公文庫)
1990/8
1898年革命
翌1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発する。その直前、香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取り付けていたアギナルドら亡命指導部は、マニラ湾海戦(4月30日〜5月1日)での米艦隊大勝を経て、5月19日、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たした。
5月24日、アギナルドは本拠地であるカビテで「独裁政権」の樹立を宣言、6月12日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任した(現在のフィリピン「独立記念日」)。その後まもなく6月中に独裁政府は「革命政府」に改組され地方政府の組織化が始まり、7月15日アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足した。その一方で、これまで外国からの武器購入交渉を担当していた、在外有志による香港委員会(1896年11月結成)は、革命政府の外交活動と武器調達にあたる香港駐在の「革命委員会」として公式機関に改編された(6月23日)。以上のような行政機構の整備とともに、独立派はアメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置いた。ところがこの前後から米軍との協力関係は次第に微妙なものとなり、8月13日、植民地支配の中心地であるマニラを占領しスペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきた独立派の入市を許可しなかった。
9月10日、マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都となり、9月15日にはフィリピン人の代表よりなる議会をこの地で発足、さらに翌1899年1月にはマビニを首班とする内閣が発足し、1月21日に独自の憲法(マロロス憲法)を制定し1月23日の「フィリピン(第一次)共和国」(マロロス共和国)樹立宣言に至るまで独立国家としての整備を進めていった。この時点で共和国政府はミンダナオを除くフィリピンのほぼ全土を掌握していた。しかし前年の1898年12月10日、米西間のパリ講和条約で20,000,000ドルと引き替えにスペインよりフィリピンの主権を獲得した米国は、12月21日マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定、マビニ首相により進められていた対米交渉も暗礁に乗り上げ、1899年2月4日には両国間の戦争(米比戦争)が始まった。
対米戦争
しかし1899年3月31日には早くも首都マロロスが陥落し、以後共和国政府は中部ルソン地方のタルラク州・ヌエバ・エシハ州を転々と移動することを余儀なくされた。そして11月12日アギナルド大統領はパンガシナン州バヤンパンで正規軍の解体と遊撃隊によるゲリラ戦を布告し、ルソン北部の山岳地帯に撤退した。
しかし独立派が圧倒的に優勢な米軍を相手にねばり強さを見せるのはこれ以降であった。アギナルド政権下で非主流派として脇に押しやられていたボニファシオ派や革命的宗教結社などは熾烈なゲリラ戦を展開して長期間にわたり米軍を悩ませた。1901年3月23日、イサベラ州で米軍に捕らわれたアギナルドは4月1日アメリカ支配への忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じ(同じく捕虜となったマビニやリカルテらが断固として服従を拒否した態度に比して、これらはアギナルドの人気を著しく凋落させる結果となった)、こののち各地で独立派幹部の投降が相次いだことから、同年7月にアメリカは軍政より民政へ移行し、早々と米国に忠誠を誓っていた親米派フィリピン人(かつてプロパガンダ運動を支持していた新興有産層が多かった)を行政機構に登用、有力者を取り込むことでアメリカ統治体制の安定をはかった。
ところがアギナルドに従わず「革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍など抵抗を継続する勢力もあり、マルバール投降(1902年4月)後の、1902年7月4日になってセオドア・ローズヴェルト米大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言した。しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・サカイ率いるゲリラ部隊(1904年〜1906年)など反米ゲリラはやまず、米軍が投降勧奨政策と徹底弾圧政策(この時米軍がゲリラと農民の結びつきを絶つために採用した「戦略村」は、ベトナム戦争にいたるまで米軍の対ゲリラ戦争の主要な戦術となった)を併用しつつこれらの独立派勢力を完全に鎮圧し、植民地支配体制を確立したのは1910年頃のことであった。
かくしてフィリピン(および東南アジア)史上初の植民地独立革命は挫折に終わり、真の独立の実現は第二次世界大戦後の1946年まで持ち越されることになった。