フッサール『論理学研究』読解(011)
■第七章 懐疑論的相対主義としての心理学主義
■第三二節 理論一般の可能性にたいするイデア的条件、懐疑論の厳密な概念
□理論一般の明証的な可能性の条件
フッサールはこの章では、心理学主義では懐疑主義に陥る可能性があることを示そうとする。この問題についてフッサールはこれまでとは違った周到な論理の運び方をしており、いくつかの定義から始める。まず懐疑主義についての定義をするために、それ自体が非合理的な理論とはどのようなものかを考えてみる。懐疑主義が、みずからの理論を否定する構造を含んでいることを指摘し、心理学主義にも同じ傾向があることを示すためである。
フッサールは、「あらゆる理論一般の明証的な可能性の条件」を考察することを提案する(131/110)。
In doppelter Hinsicht kann man hier von evidenten „Bedingungen der Möglichkeit" jeder Theorie überhaupt sprechen.
これは主観的な観点と客観的な観点の二つに分類できる。第一の主観的な観点はさらに主観性一般についての条件と、主体の認識と対象の関係についてのイデア的な条件に分けることができる。主観性一般の条件とは、その主体が直接的な認識と間接的な認識をしうる条件をそなえているかどうかである。イデア的な条件とは、ある理論の理性的な正当化の可能性があるかどうかである(同)。
Fürs Erste in subjectiver Hinsicht. Hier handelt es sich um die apriorischen Bedingungen, von denen die Möglichkeit der unmittelbaren und mittelbaren Erkenntnis' und somit die Möglichkeit der vernünftigen Rechtfertigung jeder Theorie abhängig ist.
第一の主観性の条件は認識可能性そのものであり、これはいわば前提である。問題なのは第二の主観性の条件はイデア的な条件であり、それは明証性による決定であることである。どの判断についても、「それらを盲目的な先入見から区別し、またただたんに真理とみなすというだけでなく、真理そのものを所有しているという明白な確実性を彼に与えてくれる明証」(132/111)をそなえているかどうかということである。
明証的な判断が盲目的な判断よりも優れていることを否定するならば、「その理論は理論一般としての可能性の主観的な条件に違反する」(同)であり、恣意的で不当な理論と正しい理論の区別を破棄してしまうことになる。フッサールはこうしたイデア的な条件をここでは「ノエシス的な条件」(同)と呼ぶことに注意したい。
Man sieht, daß unter subjectiven Bedingungen der Möglichkeit hier nicht etwa zu verstehen sind reale Bedingungen, die im einzelnen Urtheilssubject oder in der wechselnden Species urtheilender Wesen (z. B der menschlichen) wurzeln, sondern ideale Bedingungen, die in der Form der Subjectivität überhaupt und in deren Beziehung zur Erkenntnis wurzeln. Zur Unter- scheidung wollen wir von ihnen als von noetischen Bedingungen sprechen.
第二の客観的な観点は、理論の可能性の条件を、「認識の主観的な統一」という観点からみるのではなく、「理由と帰結の関係によって結合された、諸真理ないし諸命題の客観的な統一」(同)から考えるものである。真理、命題、対象、性質、関係など、理論的な統一という概念を本質的に構成する概念に適切な位置が与えられているかどうかが問題とされる。もしもこれらの概念が否定されるようであれば、その理論はその内容において、「それなしにはそもそも理論が理性的な意味をもたないように法則に違反する」(同)のであり、「この理論はこの客観的・論理的観点では自分自身を排棄することになる」(132-133/112)。
In objectiver Hinsicht betrif t die Rede von Bedingungen der Möglichkeit jeder Theorie nicht die Theorie als subjective Einheit von Erkenntnissen, sondern Theorie als eine objective, durch Verhältnisse von Grund und Folge verknüpfte Einheit von Wahrheiten, bezw. Sätzen
□理論的な可能性を満たさない理論
この二つの観点から、その理論的な可能性に問題のある理論を考えてみると、「誤った理論、不合理的な理論、論理的およびノエシス的に不合理な理論、懐疑的な理論」(133/112) を区別することができるだろう。間違った理論とは、理論的な命題が現実と矛盾する理論であり、不合理な理論とは、理論的な命題そのものに矛盾が含まれるか、現実との一致を検証しようがない理論と考えることができるだろう。論理的に不合理な理論とは、論理に内的な矛盾がある理論であり、ノエシス的に不合理な理論とは、明証性の基準によってその理論的な正しさを現象する可能性そのものを否定する理論と考えることができるだろう。
Wir unterscheiden also (natürlich nicht in klassificatorischer Absicht): falsche, absurde, logisch und noetisch absurde und endlich skeptische Theorien;
フッサールはこれらについては説明せず、懐疑主義について「そのテーゼが、理論一般の可能性に対する論理的またはノエシス的な諸条件が誤りであることを言明または分析に含蓄している一切の理論」(同)であると定義する。
unter dem letzteren Titel alle Theorien befassend, deren Thesen entweder ausdrücklich besagen oder analytisch in sich schließen, daß die logischen oder noetischen Bedingungen für die Möglichkeit einer Theorie überhaupt falsch sind.
そして論理的な懐疑論とは、真理は存在しないという古代のソフィストの懐疑論が考えられている。ノエシス的な懐疑論は、認識や認識の基礎づけは存在しないという同じくソフィストの懐疑論が考えられているのだろう。フッサールが目指しているのは、経験論そのものが懐疑論にいたることを証明することにある。
Hiermit ist für den Terminus Skepticismus ein scharfer Begrif und zugleich eine klare Sonderung in logischen und noetischen Skepticismus gewonnen. Ihm entsprechen bei- spielsweise die antiken Formen des Skepticismus mit Thesen dar Art wie: Es giebt keine Wahrheit, es giebt keine Erkenntnis und Erkenntnisbegründung u dgl. Auch der Empiris- mus, der gemäßigte nicht minder als der extreme, ist nach unseren früheren Ausführungen ein Beispiel, das unserem prägnanten Begrife entspricht. Daß es zum Begriff der skep- tischen Theorie gehört, widersinnig zu sein, ist aus der Definition ohne weiteres klar.